今庄へ行き、燧城へ上る。前回、6月に登ろうとしたときには、登山道に柵があり、侵入禁止かと思ったのだが、鹿よけの柵であり、ヒトは登ってもいいとわかったので、再挑戦である。標高270m、山城としてそれほどの規模のものとも思われないが、結構きつかった。落ち葉が大量に落ちていて、雨の後では滑って登れなかったろう。
今庄の宿文政の道案内付近から
本丸付近
本丸付近は北東方向が伐採してあり、日野山が見える。
すぐ下に日野川の流れているのが見える。JR今庄駅、今庄宿がある。
寿永2年(1183)4月、義仲勢はこの燧城に籠り、平家の北国下向軍を待ち構える。この時川の水を堰き止め、湖のようにして平家の侵入を防いだ。川の名は新道川・能美川とあるが、いずれも現在の川の名ではない。新道川は鹿蒜川、能美川は虎杖川に比定される。どちらも日野川へ合流する。
福井県史の源平北陸合戦
平家物語ではこうある「城郭の前には能美川 新道川とて流れたり。かの二つの川の落合に大石を重ね上げ、大木を伐って逆茂木に引き、柵をおびただしう掻き上げたれば、東西の山の根に水塞きこうで、湖に向かえるがごとし。」さて、どこで川を堰き止めたのか?火打城の案内板でもそうなのだが、日野川を堰き止めた、としているものも多いようだ。だが、この辺りでは既に中流域に入っている日野川は大河だ、この川を堰き止めたら地元民への影響が大きすぎるだろう。秀吉の城攻めではあるまいし、加賀・平泉寺が主力かもしれないが、遠征軍ではない、勢力圏内での守備戦だ。二つの川の落合とは、鹿蒜川と日野川の合流地点だと考える。
既に日野川と合流している板取川(能美川)が宙に浮くが仕方がない。新道川(鹿蒜川)との合流地点までを能美川(板取川)と呼んだということもないだろう。新道川(鹿蒜川)・能美川(板取川)共に日野川の支流だ。紫式部に日野山を詠んだ歌がある。 日野山・日野川、地名としてセットだ。
火打城の城砦は細長いが、虎口のある大手はこの合流地点を向いて作られている。
平家はどこから来たか。琵琶湖の東西から北へ攻め上って東軍は虎杖峠を越え、西軍は木の芽峠越えとなっている。
『福井県史』通史編1 原始・古代 「第六章 若越中世社会の形成 第四節 北陸道の水陸交通 三 武者往来の道 源平北陸合戦」
しかし、栃木峠越えの整備されたのは近世に入ってからの事らしい。もちろん道はあったろうが大軍が通る道とは思えない。後続部隊として北陸路に来た経正は竹生島に詣でて琵琶を弾いているが、彼らも海津に来ているので木の芽峠ルートである。
近江から今庄に至る峠越えのルートは3つ。山中峠越えは一番古い道で、大伴家持が通ったことで知られる。次は木の芽峠越えで、紫式部も通ったという平安時代から鎌倉・室町のメインルートだ。山中峠越えに対して新道といわれた。現代の道路では国道476号線が近いが、敦賀から今庄へ向かうと木の芽峠はトンネルになっていて、トンネルを抜けると湯尾付近まで365号線と重複してしまう。古来のルートは鹿蒜川沿いに伸びる今庄-杉津線の上新道あたりに出るらしい。そこに案内板が立っている。
福井県史の源平北陸合戦に拠れば、盛衰記から 東西いずれから来た平家軍も「還山」に至ったとある。還山かえるやま、家持のころから、木の芽峠から山中峠にわたる山並みをかへるやま、といったらしい。
鹿蒜もかひる、かえるである。
結局平家軍の終結したのは南今庄辺りではあるまいか。
将に火打城のすぐ南を流れる鹿蒜川を堰き止め、集結する平家軍の眼前に湖水さながらの情景を見せたのである。
この策も、平泉寺長吏斉明の裏切りによりあっさり火打城は陥落してしまう。
この城山は、南北朝・一向一揆の合戦にも使われる。山中の石垣はいつのころのものか判然としないだろう。首のもげた石地蔵があったが、これは一向一揆以降のものか。
虎口から本丸へ続く石段
新羅神社脇にの登り口があって、案内板もたっている。真直ぐ階段を登れば観音堂だが、左へ進むと登山道になる。新羅神社は新羅三郎を祭ってあるそうだ。何故源義家の弟源義光を祭っているのかは不明。
観音堂へ
山を巻くように登って行くと虎口址へ出たが、この登り道が大手ではなかったようだ。登りの時には気が付かなかったが、下った時、稲荷神社へ向かう標識があった。こちらが大手口になるのだろう。
コスモスが群れ咲、ススキが高く穂を上げ、萩は盛りを過ぎて花を散らす初秋でした。