物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20190921 木曽

2019-09-30 | 行った所

木曽路はすべて山の中にある。と書いたのは藤村だったはずだ。全く山ばかりだ。そして木曽の谷は狭い。木曽山脈で東に隔たる伊那に比べても随分狭い。木曽川が流れ、その河岸段丘になっている。

日義村、その名も朝日将軍義仲から採ったという。義仲はここで育つ。父義賢は武蔵で甥の義平に殺された。2歳の駒王丸は齊藤実盛に木曽へ連れてこられたという。養父中原兼遠は駒王丸の乳母の夫だという。駒王丸はたくましく育つ。乳母子、義兄弟、親友の兼平と共に。駒王丸は義仲として元服する。
巴の存在は「?」が付くがもちろん女はいただろう。清水冠者と呼ばれる義高は義仲が19歳か20歳のころ生まれているはずだ。母は尊卑分脈に拠れば中原兼遠の娘、兼平の妹だろうか、十分候補になりえただろう。義高は嫡男とされるので正妻だろう。ただ、源氏の棟梁候補の婚姻と考えると内向き過ぎる気がする。例えば、甲斐源氏、美濃源氏あたりは候補にならなかったのだろうか。もし、美濃源氏と提携出来ていたら随分変わったろう。北陸路を回ることさえなかったかもしれない。養父中原兼遠は義仲の源氏の棟梁となることを望み、貴種を拾ったつもりで育てただろうが、一面、この木曽の地で娘と仲睦まじく生きてくれたら、とも思っていたのではないか。義仲には他にも子はいるようだがよくわからない。義仲は京都で松殿藤原基房の娘の婿になる。平家物語には随分デレデレした様子が描かれる。しかしそれは一時の事、木曽を出てからの義仲はまさに疾風怒濤の3年間を駆け抜けた。兼平をはじめ一緒に出立した1千人のうちで戻った者はほとんどいないだろう。

義仲館


日義村、頑張った!郷土の英雄義仲の全てを展示するぞ、という意気込み。等身大人形やらビデオやら、ジオラマ、義仲関係の大地図。南都牒状がコピーでも写真でもなく、手書きで写して巻物に仕立てて展示されていたには驚いた。義仲の下文もあった(これはコピー)

 
徳音寺がすぐ近くだった。


この村のマンホールは笹竜胆の意匠だ。


巴ヶ淵

濃尾平野を流れ、伊勢湾にそそぐ木曽川は大河だが、この辺りではまだ上流、渓谷の趣だ。近くには山吹山という山もある。巴御前、山吹御前は義仲を彩る伝説の女達だ。地名の方が先、と云うことはないかしらん。また、巴の場合はどこかで板額との混同が起こった、或いは平家作家の意図的な混同はないのだろうか。板額という女武者の事を知った作者が、義仲にも女武者を附けた。ただ平家物語での巴の存在はあっさりしている。盛衰記ではもっと詳しいようだが、平家物語では出自もかかれない。第9巻、木曽の最期で義仲の兵が7騎になって初めて出てくる。その後、今井兼平に会い、手勢を集めたもののまた5騎のみになった時、義仲は「最後の戦に女を具したりなどいはれん事 口惜しかるべし」と巴を去らせる。去り際の巴はすさまじい。武蔵の大力の剛の者、御田八郎師重、30騎ばかりで出てきたところへ割って入り、「先づ御田八郎に押し並べ、むずと組んで引落しわが乗ったりける鞍の前輪に押し付けて、ちっとも働かさず、頸ねじ切って捨ててんげり。」その後物具を捨て、東へ落ちる。

林原本平家物語絵巻
ただ、鞍の前輪に押し付け、頸をねじ切る、というのは、宇治川の合戦で畠山重忠が義仲の郎党長瀬を同じように打ち取っているし、篠原の戦いで手塚光盛が齊藤実盛を討ち取る場面も同じだ。騎馬戦の組打ちの定型かもしれない。
板額は城一族の女である。横田河原で義仲と対決した城である。平家物語6巻「しわがれ声」で急死した資永、継いだ長茂の妹であるようだ。城一族は横田河原の後、落ちぶれるが、長茂は梶原景時のつてを得て鎌倉の御家人になる。しかし梶原氏が滅ぼされた後、京都で反旗を翻す。呼応し、越後で資永の子資盛と板額が挙兵する。もともと城氏は平家の郎党で越後を任されていたのだ。板額は反乱軍の一方の将として奮戦し、鎮圧に来た鎌倉軍をてこずらせたという。板額は足に傷を負い捕まり鎌倉へ連行される。吾妻鏡に記載され、板額は実在したとされている。

南宮神社

義仲の戦勝祈願の地の一つ、この辺の神社はみんな義仲が祈願したことになっているかのようだが。

19号線に面しているが、裏手に滝があり趣のあるところだった。

旗揚げ八幡。
このケヤキか! 樹齢800年だそうである。つまり義仲の同時代からの存在だ。さすがに樹勢衰え、2代目がすぐ近くにある。






義仲屋敷跡が隣接。


宮ノ越宿


中山道の中間地点、京と江戸の真ん中だそうだ。笹竜胆の白旗がなびくは中山道と関係はない。義仲の地、というほどだろうか。

このすぐ左手に木曽八景 駒ヶ岳の夕照の碑があった。晴れた日には木曽駒が見えるのだろう

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