物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20191103 宇治・石清水八幡

2019-11-06 | 行った所

朝食後、宇治河畔を散歩する。

平家物語に宇治の合戦は2つある。1は第4巻「橋合戦」、2は第9巻「宇治川の事」
1は以仁王を南都に向かわせた源頼政と平家軍の戦いだ。2は源義仲の手勢と頼朝がよこした義経軍の戦いになる。
義仲の宇治へ回せた兵力は手勢は300、鎌倉勢が2万では川を押し渡られてしまっては対処の仕様がなかったろうが奮戦している。佐々木高綱=イケヅキVS梶原景季=スルスミの先陣争いはこの時だ。2騎は橘の児島の先から駆け出して川に入る。先行する景季に高綱は馬の腹帯が緩んでいるなどと声をかけ、締め直す景季を尻目に先陣を取る。
橋合戦では守る頼政が平等院側、対して宇治川の合戦では攻める義経勢が平等院側から川を渡ることになる。義仲勢は宇治を突破され、同時に範頼勢に瀬田をも突破される。この辺り読むのがつらい。義仲は京都六条河原から大津へ向かう。最期の戦い、粟津だ。今井と再会、別れ、そして死。今井の死は平家物語中でも印象的だ。

宇治の平等院の対岸に宇治神社があり、かわいい見返り兎がいた。



宇治西ICから京滋バイパスに乗る。巨椋JCT付近は巨大な巨椋池があったというが跡形もない。高速からは工場地帯のように見える。久御山淀ICで降り、石清水八幡宮へ向かう。電車の駅からケーブルカーで登るつもりが、ナビの言う通り入ったら急坂の狭い住宅地を登ることになった。住宅が尽きると竹林、まもなく駐車場になった。折から七五三でにぎわっていた。



本殿はともかく、周りの建物や門の屋根はひどく傷んでいる。


非公開文化財の特別公開だというので入る。信長寄進の樋とか左甚五郎作の目抜きの猿とか。全体に皇室とのかかわりが強調されている。武家の厚い崇敬を受けたという八幡の気配がなくぴんと来なかった。
エジソンの碑がある。立派なものだ。電球のフィラメントにここの竹を利用したとか。


展望台より京都市街地方面

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20191102 宇治 平等院 源頼政

2019-11-06 | 行った所

琵琶湖畔から422号線ついで3号線沿いに瀬田川を下る。琵琶湖から流れ出る唯一の河川、瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾にそそぐ。どこで瀬田川が宇治川になるのかと思っていたがよくわからなかった。漠然と滋賀県のうちは瀬田川、京都府に入ると宇治川かと。初めから水量の多い悠々たる流れかと思ったら、渓谷じみてくる。さらにはダム湖のようになっている。全くの山間地で、土砂崩れの後も生々しい。30分ほどで宇治平等院近くへ出る。


観光地の路地を抜けホテルに入る。

平等院の境内に入り、源三位頼政の墓を探す。


鳳凰堂を巡る池の周りにいくつか建物があるが、その内の最勝院というというところに墓はある。数ある源平の大将の中でも源頼政は特異だ。源平の戦、治承寿永の合戦の口火を切り、以仁王と共に三井寺に挙兵する。叡山の助力を得られず南都へ向かうも、追う平家の勢急で以仁王を逃がすべく平等院に立てこもる。橋桁を落とし宇治川を結界に僧兵の奮戦もあったが、平家方の足利勢の馬筏で宇治川を押し渡られ、敗死する。歳は70余歳。



頼政は扇を開き辞世をよんだという、それにちなんで扇の芝とか。

鳳凰堂は東に向かって建つ。西日が差して逆光だ。堂内は修復中とか。外観の塗装が見慣れないくらい赤い。


鳳翔館に鳳凰堂内の色彩復原があった。極楽浄土とは、確かに極彩色、目のくらむ美しさなのかもしれないが、長くいると落ち着けないうるさいところのようだ。

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20191102 今井四郎兼平の墓・義仲寺

2019-11-06 | 行った所

今井兼平の墓はJR石山駅のすぐ近くのはずだ。ナビにもちゃんと表示されていた。が、細い路地がくねり、右や左のナビの指示も何か心もとない。その割にはあっさり行き着いた。
今井兼平。源義仲の乳母子、義兄弟、義仲四天王の一角、猛将、誰よりも義仲を理解し、支えた男。最期に互いに会いたいと思い、共に死にたいと思った。どうして義仲寺に一緒に祀られないのか、と思うのだが、こうして兼平の墓を前にするとこれはこれでいいかと思う。義仲は義仲、兼平は兼平。住宅地の中のせせらぎの傍の墓であった。

えらく逆光だった


義仲寺は幹線道路からも表示があり、簡単に見つけたが駐車場探しの方に苦労する。




午後の秋の日差しの中境内には植木屋さんが入っていた。小さな寺で境内も狭い、芭蕉の墓があるので俳句関係の人の訪れの方が多いようだ。芭蕉は自ら義仲と共に葬られることを望んだというが、何故義仲だったのか。共通点を見出せるようには思えない。数ある武将たちの中で何故特に義仲だったのか。義仲は確かにこの辺りで死んだのだろうが、その息吹は木曽の山中の方が強く感じられる様だ。彼はきっと京都も近江も嫌いだ。

義仲の墓

芭蕉の墓

境内 芭蕉が何本か植わっていた


境内 しゅうかいどうとほととぎす

芭蕉庵天井
格子の絵は若冲だそうだがここまで剥落していると何が何だか

琵琶湖畔に出てみる。この辺りは湖が狭まってきているのであまり大きなうみには見えない。対岸に三上山が見える。画面右になるが写っていない、中央左は膳所城跡。

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20191102 滋賀 沙沙貴神社・宗盛の墓

2019-11-06 | 行った所

八日市ICを降りて沙沙貴神社を目指す。安土だ。安土城の博物館などにも近いはずだが、以前安土に来た時には沙沙貴神社なんて知らなかった。
近江佐々木の庄 近江源氏佐々木氏の本貫。佐々木氏は清和源氏ではなく宇田源氏流だそうだが、佐々木秀義は源為義の娘(義賢・義朝・為朝等の妹)を娶り、4兄弟を得る。 定綱、経高、盛綱、高綱で、頼朝や義経、義仲とも従兄弟ということになる。武勇の誉れ高いのは3男盛綱、4男高綱であり、平家物語、源平盛衰記に見える。佐々木秀義は平治の乱の後、関東へ落ちる。上の3人は連れて行き、彼らは伊豆の頼朝の下へも出入りする。4男高綱は幼少だったからか、故郷に残っていた。治承4年頼朝の挙兵に参加するため高綱は関東へ急行する。そこで彼はとんでもないことをする。馬がなかったのか、自分の馬を乗りつぶしたのか、途中で商人を殺して馬を奪う。贖う金銭を持っていなかったからだろうが、酷いものである。これは盛衰記に見える話だ。盛綱の「藤戸」での所業あいまり、佐々木兄弟は目的のためには手段を択ばぬ冷酷なものに見える。しかし頼朝は高綱が気に入ったらしい。名馬イケヅキを与える。そして梶原景季・佐々木高綱との宇治川の先陣争いへと話は進む。このイケヅキ・スルスミの話はどこまでが創作かわからないが、高綱は請えば名馬も与えられる寵臣と思われていたのだろう。


沙沙貴神社


なかなか立派な門である。注連縄が変わっている。最近は注連縄もビニールの縄もどきのところも多いが、これは立派な縄で締め方も古式っぽい。境内は車が入るところまで小砂利に刷毛目がついている。


平成16年には「藤戸」が奉納されている。

この沙沙貴神社には何故か乃木希典も祀られていた。乃木は山陰の出だが、高綱の二男の系統らしい。

沙沙貴神社から8号線で大津方面へ向かう。途中「平宗盛卿胴塚」の標識が目に入った。

中山道の標識も。急遽車を停め分け入る。リサイクル会社の作業場と森林の間になるところだ。これが滅亡時の総大将であった人の墓かと思うようなところだった。平家物語におけるこの人の評価は低い。重盛との比較上割を食ったいうところもあるだろうが、武家の棟梁としての資質に乏しかったのは事実だろう。なんといっても壇ノ浦で死にきれなかったのは不幸であった。捕らえられ鎌倉に護送されるが、そのまま戻される。出家も許されなかった。京へ後一日の篠原の宿で息子清宗共々ころされる。平家物語第11巻大臣誅罰の段である。護送してきた義経は京から僧を呼び寄せ因果を含ませ首をはねる。首は京都三条河原でさらされた。



首洗い池の名残らしい池もあった。近くの信号の標識は大篠原北とあった。




ここは中山道、ということは義経は中山道を通ったのだろうか。漠然と東海道を通ったのかと思っていたが、鎌倉も腰越も東海道の宿にはない。最も江戸そのものもなかったのだから京―鎌倉の往還も別に考えなければならないのだろう。中山道といっても信濃周りをしたとは思えない。米原-関ヶ原あたりから名古屋方面へ向かう道だろうか。
梶原景時が重衡を連行したときと同じルートだとすれば、不破の関、鳴海の潮干潟、三河八橋、浜名、池田の宿と辿ることになる。


宗盛の墓のあった野洲を抜け栗東・草津と道が混む。草津で道沿いのすき焼き屋に入る。以前近江で大変おいしいすき焼きを食べ、近江牛はおいしい、と認識しているのだが、その後あまりおいしい牛にはありつかない。ここも変に甘いたれであった。

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20191020 姫路・室津

2019-11-06 | 行った所


赤穂 ホテルから姫路城は如何にも観光地でした。休日ではないときに来てみたいものだ。初めてだったので登ってみたかったが、とても時間がかかりそうでパス。兵庫県立歴史博物館は、ほぼ姫路城のことに特化しており、期待外れ。城の近くの郵便局が播磨国府の場所になるそうだ。


姫路から250号線で瀬戸内沿いに走る、といってもほとんどが埋め立て、工場地帯といっていい。それが尽きると室之津祭りの幟が目立つ。御津(みつ)の道の駅でちょっと降りる。海岸でバーベキューができるとかドッグランがあるとかでにぎわっていた。
御津・室津は播磨風土記、万葉集などでも知られる古代からの港だ。
室津へ入る。意外なほど深い湾だ。室というのは風除け場所という意味があるそうだ。古い街並みが並ぶいいところだが、やはり住むにはちょっと・・となってしまいそうだ。




室津海駅館へ入る。建物は海鮮問屋嶋屋跡。江戸期以降の資料がほとんどだが、面白い地図がある。高倉上皇の厳島御幸からシーボルトの航路まで、室津に寄港しなかったものがない。今は小さな漁港としか見えないが重要な港だったのだ。



室原泊(室の浦)とあるのが室津

寿永2年、平家は播磨に上陸し、室山に陣を敷く。京都で後白河に義仲を中傷しケンカ状態になった新宮十郎行家、義仲との仲を回復しようとしてか、室山の平家を攻める。しかし平家に取り囲まれ、行家だけは辛くも逃げ出すが軍は大敗。この室山は室津の後方の山とされる。合戦の場所とかは不明のようだ。源平どちらも室津の港を押さえたかったのだろう。
行家は義朝の末弟、頼朝・義経、義仲などの叔父に当たるのだが、大変癖のある男だ。誰と組んでもうまくいかない。当人は武勇を誇り、弁も立つ、しかし自身が軍を率いた戦で勝ったことがない、というのはどういうのだろう。ともかく義仲にとっては迷惑以外の何物ももたらさなかった叔父だった。


室津から赤穂へ、赤穂泊まり。この後、三石・吉備津・妹尾・藤戸・水島を岡山泊で計画していたが、キャンセルして翌日帰る。

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20191020 三草山

2019-11-06 | 行った所

寿永3(1184)年2月、西海に落ちた平家は勢力を回復し、一の谷に陣を構える。源氏は範頼は大手、義経は搦め手として丹波路へ回る。

不来坂(このさか)と読むそうな。義経はここで平家が来ると思って待ったが来なかったとか、なんのこっちゃだが、そういう話もあるそうな。。


義経、丹波播磨境三草山東小野原に陣を敷く。平家は資盛以下3000騎 三草山西へ。これは鵯越えの前哨戦だが、義経は民家、野山に火をつけ大松明と称して、一気に夜襲、予想していなかった平家は大崩れ、資盛は屋島へ逃れる。


三草山西から




三草合戦モニュメント




三草山へ


三草山案内板

三草山頂上からは瀬戸内海まで良く見えるそうだ。登り口付近には昭和池という大規模な灌漑用ため池がある。


昭和池の堤防

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