最終日だ、場合によってはもう一日伸ばしてもいいかと思っていたが、帰る。
修善寺道路というのは相変わらずよくわからない。道の駅へ入りたかったが、近くへ行っても入口が分からずうろうろしてやめる。
三島を通り東名に乗る。由比PAで振り返れば富士山がある。
磐田インターで降りる。行興寺という寺だが熊野の旧跡がある。熊野は「ゆや」と読む。
平家物語第10巻 海道下 平重衡は一の谷の合戦で、乳母子に替え馬ごと逃げられ、源氏に捕らえられてしまう。梶原景時に連れられて鎌倉まで下向する。その道行が海道下である。「池田の宿にもつきたまひぬ。かの宿の長者、ゆやがむすめ、侍従がもとへその夜は宿せられけり。」池田の宿の遊女の長ともいうべき女が重衡に歌をよこす。どんな女人か?と梶原に聞く。梶原は宗盛の愛人だった人で海道一の歌詠み、と答える。
さて この重衡、子供のいないのが却って幸い、みたいな事を言うのだが、重衡の子供が箱根の僧になっているらしい。子のない嘆きは正妻にいない、というだけの事だったのだろうか。
範頼もこの辺りで生まれているはずだ。
熊野の長藤は花咲揃ったらどんなだろうと思わず思う大きな藤だ。それが何本もある。
池田の宿は天竜川の渡しの宿だ。資料館もあったのだが正月で休みだった。
浜松ICで東名に戻り帰る。
2020年元旦だ。伊豆の国市、蛭が小島へ向かう。
伊豆半島の西半分には狩野川(かのがわ)という大きな川が流れている。去年の台風19号の時、気象庁は過去の狩野川台風というのを例に引き、これに匹敵する洪水被害を警告した。狩野川台風と言われても全くピンとこなかったが、この川が氾濫したのか。この川の川筋も変わっているのだろう。蛭が小島は狩野川の中州のようなところだったのか。しかし配流先がここで、伊東祐親が見張れたのか?伊東からは山越えになる。家来の見張りを置いたとしても祐親の娘と頼朝が仲良くなって子供まで作ったという話はどうなるのだ。伊豆は全くの山国だ。律令制の国のランク分けで下国とされていたのも当然だ。とても夜な夜な通うわけにはいかないぞ。北条家の館跡までは2Km程度のようだから政子の話なら納得がいくのだが。
頼朝と雅子の像。二人の視線の先には富士山がある。あいにく雲に隠れていたが。
近くを元日ウォーキングの人たちが行く。なんとなく付いて行くと韮山城趾へ出た。北条早雲の城だ。
堀だったのか池がある。河津桜があった。
江川代官屋敷へ行く。
江戸幕府はこの辺りを直轄地にしていて世襲の代官が江川氏、江川太郎左衛門英龍の幕末期の活躍はなんとなくは知っている。屋敷は普段は公開しているがあいにく元旦からは開いていない。でも外回りは少し入れた。なかなか豪壮なお屋敷だった。英龍、パン祖でもあったとか、乾パンを工夫したそうだ。
山木判官館跡の案内板を見つけたので行ってみたが、さっぱりわからない。携帯の地図が示すあたりは比較的新しい住宅が立ち並んでいて、その裏手かとも思えたが、ぐるりと回り、犬の散歩をしていた人にも尋ねたが分からずじまいだった。
山木兼隆、治承3年の政変後、平家に伊豆の目代として送り込まれる。北条時政が山木兼隆と娘政子との縁談を進め、婚礼前夜政子は逃げ出し伊豆山に籠った、というのだが、これは眉唾。ただ石橋山の戦いから頼朝が房総を回り相模に入るまで政子は伊豆山にいたらしい。頼朝は平家打倒の旗揚げ時、真っ先に山木館を襲っている。
車に戻り、韮山反射炉に向かう。幕末の産業遺跡だ。元旦だが資料館が開いている。かなりの客も来ている。日差しがまぶしい。これを一から作った太郎左衛門さん、ただものではない。反射炉の仕組みなどは正直よくわからなかった。しかし江川家は源満仲を祖にする家系と知った。
北条館跡へ向かう。狩野川沿いに守山という山があり、その周りに北条家の遺跡が点在するらしい。
発掘調査も行われているようだが、全体として史跡公園化するには道半ばか。
看板後ろの更地が館跡か、発掘の後埋め戻しているらしい。
政子産湯の井戸跡
堀越公方址
これは室町時代も末期の事。京から足利義教の四男政知が鎌倉公方として下向するが、鎌倉まで行けず伊豆の堀越にいたというもの。その子の一人茶々丸は親族を殺しまくり、北条早雲にこの辺りを乗っ取られるという話。
願成就院
北条北条時政が頼朝の奥州攻めの成功を祈願して建てた寺とか。
時政の墓がある。
旗揚不動 木曽の義仲の挙兵の地には笹竜胆の白旗が幟となって翻っていたが、ここではその雰囲気はない。
修善寺へ向かう。ここは全くの観光地だ。この辺りの古い温泉旅館などを取らなくてよかった。修善寺川の渓流、足湯の場所、竹林の様など風情と魅力はあるところなのだろうが、よくわからない。
範頼の墓を探す。てっきり修善寺境内に墓があるだろうと思っていたら結構距離があった。おかげで散策の人も少なく、墓も穏やかに佇み、川を見下ろしているように見えた。
範頼の母は磐田市の池田の宿の遊女だと言われる。義朝の子だが、平治の乱の後の平家の探索の対象ともならないほどの存在だった。何故か九条兼実下の公卿の藤原範季に養育される。
決して無能な人ではなかったろうと思う。頭が悪いとか、性格が著しく悪いとかであれば実の息子と共に教育しようなどとは思うまい。
しかし平家物語ではぼろくそである。「参河守範頼、やがてつづいて攻め給はば、へいけはほろぶべかりしに、室・高砂にやすらへて、結友遊君・遊女共召しあつめ、あそびたわぶれてのみ月日を送られけり(第10巻 大嘗会の沙汰)」
範頼が先に九州を押さえていたからこそ、平家は壇ノ浦で決戦とせざるを得ず、義経も思い切って戦えた。曲者ぞろいの関東武者を引き連れての西国下向は生易しいことではなかったろう。
範頼はこまごまと頼朝に書き送る。律儀なのだ。
曽我の仇討事件の時、頼朝が死んだという誤報が鎌倉に届く。嘆く政子に「それがしが控えておりまする」等といっただろうか。ともかく範頼は修善寺に幽閉され殺される。
頼朝は家来たちの人物をよく見て的確な判断を下したと言われる。その目は弟たちに対しても厳しいものであったろうが、さすがに殺しすぎだよ、と言いたくなるのだ。
なんだか疲れ、ホテルに戻る。
今日は晴れだ。
酒匂川へ行ってみる。治承4年(1180年)8月、頼朝は旗揚げし、伊豆の目代山木兼隆の館を襲う。続く石橋山の戦いとなるのだが、この時頼朝と合流するはずだった三浦一族は酒匂川の氾濫のため合流できなかった。頃は8月というが旧暦だから今の9月になる。台風でも来ていたのだろうか。 この頃の頼朝の有力な味方といえば北条・土肥・三浦一族、近江から来た佐々木家くらいなもので、初期鎌倉の主だった御家人、梶原・畠山をはじめ熊谷・渋谷・川越・江戸氏などはまだ平家方である。
三浦は石橋山の敗戦を聞き、三浦半島へ引き返し衣笠城に籠って戦うが、城は落ち 船で房総半島へ渡り、そこで頼朝と合流する。
酒匂川から富士山を望む
曽我の里。富士が見え、梅林が続く長閑な里に見える。
曽我祐信は後妻として曽我兄弟の母を娶る。亡妻との間に子があったかどうか曽我物語は語らないが吾妻鏡では嫡男がいてちゃんとお披露目もしているらしい。後妻との間には3子ができた。巻狩りでの事件の後、頼朝に呼び出され焦るが、曽我の里の年貢は後妻に与えられ、共に兄弟の菩提を弔うように言われる。養子にした兄弟の敵討ちへの意思を知らなかったとも思えない。縁戚の畠山・三浦。北条などは兄弟の敵討ちの後押しをしているとしか思えない曽我物語の記述がある。本当のところどう思っていたのか。
引き返し石橋山へ向かう。途中箱根行の道と分かれる。箱根行は今日も混んでいる。伊豆半島を南下する道は西湘バイパスというらしいが、石橋ICでおしまい。135号線から更に山道を上がる。石橋山古戦場氏の案内板の近くに車を停め徒歩で上がる。素晴らしい天気となった。すぐ下を伊豆鉄道が走る。相模湾が穏やかに広がり、目を転じれば富士が見える。
みかんが植えられ、軽トラで上がってきた男性に猿が出るから気を付けてと声を掛けられた。道にいっぱい蜜柑が落ちているので狙って出るのだろうか
佐奈田神社はここで戦死した頼朝の家臣佐奈田与一義忠を祀ったものだ。父は三浦義明の弟で岡崎・佐奈田と名乗っても三浦氏の一族だ。
大庭景親の弟俣野景久と組打ちし、押さえ込んだものの、直後俣野の郎党に殺される。俣野景久というのは曽我物語で兄弟の父河津三郎と相撲を取る随分自信家の物言いをする人物に描かれている。しかも平家物語の第7巻篠原合戦で合戦を前に齊藤実盛ら東国の武士たちが語り合うシーンにも出てくる人物だ。
佐奈田の郎党文三を祀った祠もある。
ここで頼朝と対戦したのは北から大庭、南から伊東である。伊藤祐親は曽我兄弟の祖父であり、鎌倉幕府成立時、実に曽我物語は絡んでくる。
佐奈田神社から下ってくるとしっかり猿が姿を現した。結構大きな雄猿だ。鉄道の線路にも堂々と入っている。
石橋山から南下、真鶴に向かう。途中頼朝が安房へ渡った船出地があるはずなのだが解からないまま真鶴半島の先端まで来た。風が強いが、日差しに輝く海。
随分引き返し、真鶴半島の付け根近い岩という港が「源頼朝船出の浜」だった。真鶴道路の橋脚の間に肉眼ではうっすらと房総半島が見えるのであるが写真では見えない。左に島影のように見えるのが三浦半島だろう。
ここから頼朝の「大返し」が始まる。敗軍の将が逃亡地で軍を集め天下を取った例は日本史上他にないのではないか。
135号線へ戻り伊豆山神社に向かう。ナビの名称指定で出てこない。どうも「いずやまじんじゃ」と入れたせいらしい。「いずさん」が正解らしい。下の駐車場がいっぱいで、上の駐車場へ、というのだがすごい傾斜の坂道。すぐ神社だが、したから参道を登った方がそれらしかったろう。と思ったが下の駐車場のところでさえ途中どころかだいぶ上の方だったようだ。。金比羅山ほどではないにしてもすごい階段。
あまり大きな神社ではないようだ。縁起はなんだかよくわからない。基本的に温泉の神様なのかな。
頼朝と別れさせられ、山木兼隆と結婚させられそうになった北条政子が逃げ出して伊豆山に籠る。そこへ頼朝がやってきて・・とほんまかいな。
伊豆山神社から伊東に向かうには熱海を通らなければならぬ。年末年始を熱海で過ごす人が多いのか混んでいる。おまけに急傾斜の隘路だ。熱海って素晴らしい保養地のようなイメージだが勘弁してほしいところだった。ようやく抜けて道沿いのラーメン屋に入る。
伊東市街地の住宅地の一角に伊東祐親の墓を探し当てる。
なかなかアクが強いが面白い人物ではないかと思われる祐親だが、祖父の工藤祐隆も相当のものだ。藤原氏の系統で工藤家というのは狩野の方にいたが、伊東の地を開発し久須見荘・伊東荘・宇佐美荘・大見荘・河津荘等を支配し、伊豆半島の有力豪族となり久須美入道と号した。祐親の父が早逝すると後妻をもらったはいいが、後妻の娘の連れ子に子を産ませ、嫡子とする。孫の祐親(こっちの方が年上のはずだ)は次男として養子にする。領地の大半を連れ子の子に与え、祐親は河津荘のみを得る。これがゴタゴタの始まりで、連れ子の産んだ子の子が工藤祐経、祐親の孫が曽我兄弟ということになる。
墓には植え込みが巡り入るところが分からない。隣家との間の路を入って回るのだが、隣家では犬が吠えだし、幼児の鳴き声もする。こんなところに潜り込もうというのはまるで不審者のように思われるようで閉口した。しかし墓自体はきれいに整備されている。
伊東から河津への道も混む。リゾート施設が点在するのか、熱海付近のような渋滞ではないが交通量は多い。河津は遠い。
河津は山がちな伊豆半島の東側の中では開けた土地がある方だろう。河津川沿いに河津桜が咲きそろうそうだ。2月に咲く早咲きの桜で濃いピンクのようだ。
ここは伊東祐親の子が継ぎ、河津祐泰と名乗った。曽我兄弟の父である。曽我物語では素晴らしい人物として描かれ、身体が大きく色白の美男、力持ちで相撲が強い。相撲の決まり手「河津掛け」はこの人から始まることになっている。
河津八幡神社。この辺りは谷津(やつ)という地名。曽我兄弟が幼少のころ遊んだところだそうだ。神社に手作り感満載のパンフがあり、1部50円だった。
海岸が近い、実際の伊東―河津の連絡は船が多かったのではないか。
意外に道が混んだせいもあって時間が押してきた。修善寺方面に向かう。これも結構な山道だ。途中天城トンネルをくぐる。天城越えというのはこれか!なぜか伊豆ではない長野かどこかと思い込んでいたようだ。浄蓮の滝の案内板もあった。
修善寺道路というのがあるのだが、切れ切れに110円 200円と取る。どこをどう走っているのかさっぱりわからない。加えて予約したホテルが比較的新しかったせいか電話番号で指定したナビは全然違う場所へ出てしまい、迷う迷う。
今日は曇りから雨が降るらしい。
白糸の滝へ向かう。ぐるりと富士山の周りをまわり、御殿場から箱根を通り、小田原へ降りようという計画だ。
ほとんど何の予備知識もないまま来た。滝というのは崖上に川があり、その流れが崖下の滝壺に向けて流れ下るものだと思っていたが、ここの滝はほとんど崖から直接水が流れ落ちている。白糸の名のごとく岩を無数の流れとなって流れ下る。
案内板によれば天気が良いと滝の向こうに富士山が望めるようだが、残念なことに雨が落ちてくる天気となって何も見えない。おまけにこの辺りは曽我物語のかたき討ちの場所らしい。一応図書館にあった現代語訳「曽我物語」に目を通してはきたのだが、まるで歌舞伎の筋立てのような突っ込みどころ満載の因縁話で、登場人物たちの人間関係と粗筋を飲み込むのが精いっぱいのところだった。
音止めの滝、というのは、所謂滝のイメージに近いが、曽我十郎・五郎が敵討ちの段取りを話すのに、滝の響きがうるさく話が出来ず、音を止めてほしいと願ったら滝の音が止まった、というものだそうだ。
曾我兄弟隠れ岩 兄弟が隠れて襲撃の時を待った所。
矢印の案内に従い、その敵工藤祐経の墓を探すが、見つからないのだ。代わりにあったのが曽我神社。
建久4年(1193年)5月、頼朝主宰の富士の裾野の巻狩りの最終日、曽我十郎・五郎が工藤祐経の宿所に乱入、祐経を殺し、殺到した御家人たちと乱闘、十郎は死んだが五郎は頼朝の宿舎にまで入り込み捕らえられるも、臆することなく頼朝に事の経緯を語った、というのはどうやら史実らしいのだが、全体的によくわからない変な話なのだ。しかし敵討ちというのは好まれたのか、美談として伝わり、江戸時代の歌舞伎では助六実は曽我五郎などと更にわからない話となって広まる。敵役は敵役で更に憎々しい存在となったのか、有能であったらしい祐経の墓はどこだったのだろう。
北上し山梨県側になるとかなり雪の降った後がある。本栖湖畔を少し走り、富士山ろく北側を回っていく。残念ながら富士は全く見えない。
須走のドライブインで一服。この近くにも富士浅間神社がある。
富士山の登り口となるようなところにはみな浅間神社があるらしいが、ここのも立派な神社だ。富士講碑がたくさんある。びっくりするような狛犬? 楼門の中には富士山がある。
鎌倉往還の道がこの辺を走っていたようだ
御殿場を通過して箱根へ向かう。どこをどう走っているのかさっぱりわからなかったが、ともかく芦ノ湖畔に出て箱根神社へ。
箱根神社は意外に小さな神社に見えた。ここも曽我五郎が子供のころ預けられ稚児をしていた関係で曽我物語所縁の地として知られているらしい。なんだか平家物語変じて曽我物語ツアーみたいになってきた。が、ここは源義仲の参謀覚明が隠れたところのはずだ。その痕跡は、箱根山縁起。これを覚明が起草したというのだ。説明書きにあった。大夫房覚明、信救得業とも名乗る。文才あるも辛辣すぎるきらいはあったようだ。曽我物語の作者ではないかともいわれる人物だ。
芦ノ湖に赤い鳥居が見える。その傍で写真を写す人の列。この辺りは地形も面白いようだがよくわからない。
箱根関所へ向かう。まず資料館。箱根だけでなく江戸期の全国の関の資料もあった。北陸道だと柳ヶ瀬、いつもトンネルを通るのでわからないのだが、関があったのだ。今度行ってみよう。
関所は古図面をもとに復元されている。物見台に登る。芦ノ湖を見張ったようだ。雨は小雨だが止まず相変わらず眺望がきかず残念なままだ。
関所を出て、箱根新道で小田原へ向かう。
長い下り道だが途中ブレーキ故障車待避所というものを見た。ブレーキを連続で踏みすぎると利かなくなる、エンジンブレーキを使え、と言われるが、実際にブレーキが利かなくなった車が飛び込むのだろうか。考えただけで恐ろしいが、あのようなものは初めて見た。しかも1か所だけではなく5、6か所あったようだ。スロープにはかなりのギザがついている。飛び込んだらどうなるのだろう。他の車にぶつかる事故よりはいいかもしれないが、車も乗っている人も無事では済まないような。
小田原市内に入る。なんと反対車線が渋滞だ。箱根に向かう人たちのようだ。箱根マラソンは2日からのはずだが関係があるのだろうか。今日は結構な強行軍だったが、逆方向でよかった。
小田原駅近くのホテルを取ったのだが、恐ろしく狭い道で行き止まり。ホテルに駐車場がない。公営の駐車場へ行けと言われたのだがそこへ行く道がまたわかりずらいときている。ホテルはインド系の格安ホテル。まあそれなり。楽といえば楽だ。
ホテルのすぐそばに北条氏政の墓があった
ホテル付近の路地。
ちょっと離れた所の小田原おでんの店で夕食。
雨は上がり、少し歩いた道は東海道だった。
20191229 富士・箱根・伊豆 1
朝7時出発、愛知豊田インター経由、東名に戻り東進、道中由比PAから富士山がよく見えた。
富士川SAのetc出口から出る。
富士川に沿って少し走るが、富士川の戦い跡等探しようもなかった。富士川の渡しを見つけたが江戸時代らしい。水神神社がある。
富士川を東に5キロも越えた所にある平家越えの碑を見に行くが、どうしてこんな所にあるのか。
一応碑には富士川の合戦が行われたのはこの辺と言われます、等と書いてあるのだが、川筋が変わったのだろうか。
平家越えとある橋が掛かっている川は沼川というらしいが用水路にしか見えない。
富士川と沼川の間に潤井川という川もある。更に地図をよく見ると潤井川と沼川の間にも川があるようだ。市街地の河川改修は当然あったのだろうがその履歴はわからなかった。
「平家越え」という名称も奇怪である。平家は富士川を越えるどころの騒ぎではなかったのだから。水神社、富士川の渡し場は現富士川の近くだから、少なくとも江戸時代には現富士川が富士川ということになる。
碑には富士山を背景に頼朝像が描かれ、左右に控えるは千葉常胤と佐々木高綱。実際の富士川の戦いは事実上、平家側の自己崩壊的な敗走、攻める源氏側も頼朝が主役というより南下してきた甲斐源氏が駿河の平家方を先に蹴散らしてしまったのが大きかったようだが。
田子の浦、海岸まで出る。左手に伊豆半島が見える。
振り返れば富士は見えず、見えたのは箱根だった。意外なほどに近い箱根だ。それともこれは愛鷹山だろうか。
富士宮の浅間神社へ行く。富士山本宮浅間大社というのが正式名称らしい。
正月準備をしていたが結構参拝者がある。第一駐車場いっぱい。
頼朝の騎馬像がある。富士の巻狩はこの辺りか。
浅間というのはついつい「あさま」と読んで浅間山の事と思ってしまう。ググれば浅間は火山の事とかあり、富士を祀った神社も浅間というようだが、うまく頭に入らない。
拝殿後ろの本宮は2階建ての造りだ。
境内に湧玉池、厳島神社もある。
どういう事情で読まれた歌かはわからないが、平兼盛というのは源平時代の人ではない。時代を遡り、天徳の歌合せ、960年、忍ぶ恋の題でで壬生忠見と番えられた「しのぶれど色に出にけりわが恋は ものや思ふとひとのとふまで」は百人一首で有名だ。