河越館跡
平家物語 第9巻、一の谷の戦いで平氏は次々に討たれ、また落ちていく。「知章最期」で子の知章は討ち死にし、父知盛は落ちる。知盛は馬を泳がせて沖の船に追いつく。二十余町というから2kmほど、鎧兜の武者を乗せ2キロも泳げるだろうかとは思うが、物語ではこうなっている。船には馬を乗せるスペースがない。馬を追い返す。阿波民部重能が良い馬が敵のものになるくらいならと射殺そうとする。知盛は止める。馬はしばらく船を追って泳いだが、やがて岸へ帰った。馬を捕らえるのが河越重房である。
この馬は名馬である。信濃の井上の育ちで井上黒と呼ばれ元々は後白河院に献上され一番厩舎にいた。宗盛が内大臣になった時下賜され、知盛が大事にしていた。
信州育ちの木曽馬(おそらくは)が都で法王の厩舎の最優秀馬となる。宗盛に与えられるが、欲した知盛に貸し与えたのか、知盛は宗盛よりは余程武将らしい男だ。馬を見る目もあったのだろう。それだけに馬の命を惜しんだ。
河越重房がまた後白河へ献上したので名前が河越黒となった。
平家物語に数ある馬の話で私はこの話が一番好きである。
河越重房は宗盛の末子副将が斬られるシーンでも出てくる。幼い副将を泣く泣く斬るのである。この時重房もまだ10代の少年であった。
さて、河越重房の父は重頼という。秩父氏の一族である。畠山重忠と共にはじめは頼朝に敵対し、後に従う。頼朝の命により娘は義経の妻となる。だから重頼は義経の舅であり重房は義弟ということになる。
頼朝と義経が対立すると河越家も頼朝ににらまれ、所領を没収され、重頼・重房親子は殺されてしまう。
広いグラウンドのように見えたところが河越館跡だった。子供たちが遊んでいる。
入間川に近いはずだが間に大きな道路がありよくわからない
川越市街地に入り、観光地のど真ん中へ突っ込んでしまったようだ。両サイドにそれらしい建物が並び、観光客がぞろぞろ歩いている。片側1車線で2車線の道だが大渋滞である。せめて一方通行でないとどうにもならないのではと思われた。漸く抜けてレンタカーを返しホテルへ。
翌朝、川越の町を少し歩く。まだ店が開いていない時間帯だ。昨日大渋滞だった道はすっきりと平常な顔をしている。これなら一通にする必要はないのだ。
時の鐘は酒井忠勝が作ったとあった。彼はこの後小浜藩主となる。
鬼平犯科帳の流星という話には川越が出てくる。それによれば松平伊豆守信綱が正保4年(1649)新河岸川を整備し、江戸への水運を開き、城下町の発展に努めた。
川越は小江戸と言われる。確かに情緒ある街並みに見えるが、重厚な屋根の蔵造りのような建物群は明治の大火の後のものらしい。
新河岸川沿いに梅が既に咲いていた。
養寿院。ここに河越重頼の墓があるはずである.
毛呂(もろ)山町へ向かう。
もちろんつい最近までそんな町があるなんて聞いたことも見たこともなかった。鎌倉街道について漁っていたら出てきたのだ。
鎌倉街道上道でかなりよく残っているという。資料館が隣接しているという。
充実した資料館で入場無料!
毛呂氏というのがいた。なんと子孫は江戸期には酒井家に仕え小浜にいたという。毛呂山の絵図面を持っていた。
しっかり調査し、成果を残し公表する。すばらしいことだと思う。
雑木林の中を道が500メートルほど続く。
この道を真直ぐ北上していくと、大蔵館跡の脇の道につながっていたのだろう。
折角、いい街道遺跡、資料館だというのに、道脇にゴミ捨て場のような資材置き場のようなものがあったのはいただけなかった。
吉見町へ向かう。
男衾三郎絵詞に吉見二郎という兄が出てくる。きっとこの吉見なのだ。
吉見百穴
古墳時代後期-終末期の墳墓群だ。と分かっていても奇妙なものだ。明治時代になってもコロボックル住居説などという説がまじめに語られていたというのもわかるような。
山肌は凝灰岩ということだがよく形状を保ち残っている。登っていくとコートを着ていると汗ばむほどだ。
頂上近くから富士山が見えた。
手前に広がるのは東松山市街。秩父の山も見える、中央は武甲山だそうだ。
戦時中、この山を大きく掘り、軍事工場にしようとしたらしい。朝鮮人徴用工が動員されたという。狂気の歴史もまた刻まれている。
息障院へ行く。幼稚園も経営しているらしい結構大きな寺だ。
1月とは思えぬ日差しが降り注ぐ。
範頼もこんなところで一生を終えることが出来たらどんなに良かったろう。
陰鬱な修善寺で起請文を書いた範頼は哀れである。
範頼の子孫は吉見氏と名乗り、御家人として鎌倉に仕えたという。
梅がほころびかけていた。
大蔵館跡へ向かう。嵐山のすぐ南だ。
ちょっと小高い林の中に神社があるようだ。そこが大蔵館跡だった。
発掘調査もされたようだ。
義賢は為義の次男だ。兄は義朝だが為義は義賢を嫡男扱いする。義朝は不満だったのだろう、関東で独自に勢力を張る。
義賢は帯刀先生(たちはきのせんじょう)となったり能登国の預となったりするが、どうもやることが恣意的かつ杜撰で、まともには務まっていない。しかし武力はある。藤原頼長がこの武力を取り込む。
頼長という人は摂関家忠実の次男、兄忠通がいる。日本一の大学生と言われた頭脳、悪左府と言われた果敢な厳格さ、しかし現実を見る目が弱かったと言われる。
そしてだいぶ変わった人間ではなかったかと思われる。それを示すのは彼の日記「台記」である。
「今夜、義賢を臥内に入る。無礼に及ぶも景味あり。不快の後、初めてこの事あり」久安4年(1148)1月5日の事だそうである。久寿2年(1155)8月の大蔵合戦の7年前の事である。義賢は30歳前後で死んだとされるので、この頃は20代前半、頼長は30歳近くだろうか。
貴族の日記は近代以降の思春期の少年少女のそれとは違う。複雑怪奇な儀式の式次第、有職故実、除目を子孫に伝える、というのが一義的な意味なのだろう。時事、町の噂話、災害や書き手の時々の感想も添えられ、だからこそ一級の史的資料とされるが、まず、子や孫に読ませることを前提としているはずだ。
これを子供が読むことに頼長は何の躊躇いも覚えなかったのだろうか。「誰それを臥内に入れる」というだけで「え"!」とはなってしまわないのか?もちろんこの頃の同性愛は珍しいことではない。後白河院の近臣・寵臣とされる人達は皆「ヲトコノオボエ」と云う奴で登用されている。ヲトコノオボエが出世を左右したのである。
頼長もまさかこのようにして人脈を広げるのだ、と範を垂れる意味で書いたのではあるまい。何しろ「無礼に及ぶも景味あり」だもの。「台記」には義賢だけでなく他の男性との性愛も満載だそうで、まじめな研究者は、なんでこんなものを読まなければならないのか、と嫌になるそうである。
頼長、男色家ではあるものの、結婚もし、複数の女性との間に子供がいる。もちろん後白河もそうだ。
話を義賢に戻す。父為義は長子義朝に対抗すべく義賢を関東へ遣る。上総国多胡にいて南の武蔵に勢力を伸ばしたらしい。武蔵の国の実力者秩父氏の秩父重隆に婿になって大蔵に館を構える。義仲はここで生まれたのだろうが、母は秩父氏の娘ではなかったと言われる。
相模にあって北へ勢力を伸ばす義朝とはぶつかる。義朝の長男義平、当時14、5歳が兵を率い大蔵館を急襲する。あっけなく勝負はつき、義賢も秩父重隆も討ち死に。大蔵館は灰燼に帰す。
この戦いは保元の乱の前哨戦と言われる。頼長・義賢=為義 VS 義平=義朝・藤原信頼 という構図だ。信頼は当時武蔵国司だったが、この私闘を一切咎めることなく放置。
悪源太と呼ばれる義平は三浦氏の娘の産んだ子とされる。畠山重能は秩父の一族だがこの時義平についた。
義平は重能に義賢の子駒王丸2歳を探して殺すように命じる。幼児を殺したくなかった重能は、子供を齊藤実盛に託す。実盛は幼児を木曽の中原兼遠に届ける。中原は駒王丸の乳母夫であり、駒王丸は元服し義仲となる。こういうストーリーになっている。
大蔵館跡のすぐ近くに義賢の墓がある。
義賢の墓だけでなく、源氏三代供養碑という物になっている。義賢・義仲・義高(清水の冠者)の三代だ。3人とも非業の最期を遂げた。
ここには彼らの供養碑だけでなく、為義や義家、畠山重能・斉藤実盛の碑もある。背の高い板状の石碑で「板碑」というのだそうだ。青っぽい秩父の緑泥片岩で作られ、鎌倉時代から関東を中心に鎌倉武士の所領地に建てられた供養塔。石で作った卒塔婆だと思えばいいらしいが、ここのものはみな新しい。近年に整備されたのだろう。
板碑というのは大宮の博物館で展示されていたのを見てはいたのだ。ただ刻まれた梵字からして無縁のものと通り過ぎたのだった。
大蔵館と義賢墓の間に鎌倉街道が走っている。大蔵は鎌倉街道の宿だった
。
熊谷で泊まったホテルの部屋は5Fだった。窓から富士が見えた。南西だろうか。朝が少し焼けているのか、しかし昨日とは一変、いい天気だ。冷え込んでいて車のフロントガラスに霜が一面ついている。
深谷方面へ出発。西に向かって走るとだんだん秩父山地が近くなってくるようだ。広大な関東平野の縁辺にそそり立つ山塊が秩父だ。
畠山重忠公園。畠山重忠生誕地とされる。父重能は秩父家の出だが、男衾郡畠山に屋敷を構え、畠山氏を名乗った。あの男衾三郎絵詞の男衾郡である。大蔵合戦で源義平が叔父義賢を攻めた時には義平につき、義賢とともにあった秩父重隆を攻めている。
大力、声四方に響き、勇猛果敢、智謀あり、信義篤く、坂東武者の鏡と言われた重忠は、17歳、頼朝の挙兵に会う。重忠は一族を率い、平家に与する。石橋山の戦いには間に合わなかったが、酒匂川の東にいた三浦氏と戦う。更に三浦の居城衣笠山を攻め落とす。高齢だった三浦義明は死ぬ。
三浦は船で房総半島に逃れ、頼朝と一緒になる。頼朝は千葉氏・上総氏等と大軍となって戻ってくる。この後頼朝は鎌倉に入るのだが、その前に武蔵国府等に寄っている。
畠山が頼朝方につくのはこの頃らしい。三浦は文句を言わなかったのかと思うが、畠山の力が認められたのだろう
この頃、父重能は大番役で京にあった。寿永2年(1183)平家の都落ちに際し、畠山重能・小山田有重・宇都宮朝綱の3人は東国へ帰されることになる。3人は平家について西国へ行く、というのだが知盛はこういう「汝らが魂は皆東国にこそ在るらんに、ぬけがらばかり西国へ召し具すようなし。急ぎ下れ」
この公園の重忠像はびっくりするようなものである。角度が悪く、背景の木々に紛れてしまったが、この重忠、馬を担ごうとしているのだ。鵯越えの逆落としで馬が可愛そうと重忠は担いで下りた、という源平盛衰記らしい派手な挿話から採ったのだろうが、馬は現代のサラブレッドをモデルにしたのかでかい。当時の馬はもっと小柄だったろうが、それにしても人が担げるようなものではない。そんなことをしようとしたらさぞ馬は怖がったろう。
この公園は荒川の近くにある。荒川がかくも長大な川であるということも初めて認識した。隅田川の支流みたいなものかと思っていたのだ。とんでもない。
公園は邸跡とされるが墓もある。奥の建屋の中に五輪塔がある。
鎌倉幕府に重きをなした重忠だが、頼朝亡き後、北条の策略により、子と共に殺される。42歳だったという。
嵐山へ向かう。
武蔵野、丘陵地帯、というのはこういう所かと思う道をたどる。
嵐山史跡の博物館一帯は中世の山城だらけだ。
博物館のある菅谷館跡は畠山重忠の屋敷跡だと言われる。しかし、室町・戦国の遺跡と重なり合っているようだ。
ここにも重忠の像がある。これは武人というより平城京あたりの大宮人みたい。
この博物館では男衾三郎絵詞のビデオが面白かった。
大蔵館跡へ向かう。嵐山のすぐ南だ。
熊谷駅南口でレンタカーを借りる。北口には熊谷直実の騎馬像があるようだ。写真で見ると扇をかざしている。敦盛を呼び返すところだろうか。
熊谷寺へいくも門は閉まっているし、道が狭く車を停めるところが見当たらない。その割に交通は多い。ぐるっと回って諦めた。
熊谷直実が出家して作った寺で墓があるという。
出家の動機は一の谷の合戦で若き平家の公達敦盛の首を取り、世の無常を感じたから、というのは物語的でありすぎるのだろう。実際には叔父との所領争いの裁判に負けたからだという。直実は口下手であったらしく、公事の場ではしどろもどろであったという。
関東武者の多くがそうであったように、熊谷直実も保元・平治の乱では源義朝方であり、その後富士川の戦いの前まで平家に従い、その後頼朝に従う。
平家物語では熊谷直実は第9巻「敦盛の最期」の何章段か前「一、二の懸け」にも出てくる。一の谷の先陣争いだが、熊谷親子が夜中から平家の木戸口で名乗るが「あしらふものもなかりけり」という扱いで相手にされず、更にやってきた平山季重と先に来たのは俺だ、先に木戸に入ったのは俺だ、と一番駆けを争ったという話で、いささか滑稽味を帯びている。
次の章段「二度の懸け」で梶原景時は「後陣の勢のつづかざらんにさきかけたらん者は勧賞あるまじき由」と言っている。戦は勝たねばならない、ただ先駆けすればいいというものではない。
「一、二の懸け」「二度の懸け」似た名前の章段だが、ここでは梶原が父性愛と勇猛さと見せる儲け役だ。
武者は皆、一番駆け、兜首を狙っている。恩賞を賭け戦場を駆け回る。
「敦盛の最期」の少し前「越中前司の最期」では平家の侍大将盛俊が猪俣小平則綱という者にほとんど騙し討ちに首を取られる。岩波本の平家物語ではないのだが、延慶本では、この首を猪俣は人見四郎に横取りされる。しかし猪俣は盛俊の片耳をそぎ取り、証拠とし、自分の手柄と証明したという。
この話に比べると、熊谷の敦盛を討つ話は異質すぎるようだ。いくら若く美しい公達だとて喉から手が出るほど欲しい兜首、滅多にないチャンスを逃してもいいとは思うまい。
ただ、この熊谷直実という人はどうも妙なエピソードには事を欠かぬようで、それと後の出家の話と合わせて想像されたのが「敦盛の最期」だろうか。
熊谷市街から北へ妻沼方面へ向かう。平家物語でよく知られたもう一人の坂東武者、斎藤実盛の跡へ行く。実盛と直実は隣接した土地にいたのだ。互いによく見知っていただろう。数百の武士団がひしめいたという関東でともあれ彼らは名を遺した。
齊藤実盛は越前の出身とされる。鯖江市に子孫と称し系図を持つ家もあるらしい。平泉寺長吏斉明とも同じ一族だとも。どういう経緯かは知らないが武蔵で養子に入り、ここで長井の荘別当として勢力を伸ばした。
源義賢+秩父氏を源義平(義朝子)が急襲し、義賢達が殺されたとき、2歳の駒王丸(木曽義仲)を木曽へ逃がしたのは実盛だとされる。
実盛は保元・平治の乱を義朝に従い、その後平家に与し最期を迎える。石橋山の戦い前には大将維盛に坂東武者の勇猛さを語り、すっかりビビらせてしまうというよくわからないエピソード付きだ。北陸遠征に従い、故郷に錦を飾るとて大将級の衣装を纏い、白髪を染めて戦場に臨む。倶利伽羅合戦の次の篠原合戦で義仲の手勢手塚光盛に打ち取られる。篠原合戦趾には実盛の首を抱いて泣く義仲の像がある。
妻沼の北辺は利根川であり対岸は栃木だ。
めぬまの歴史散歩とか、この辺りの実盛ゆかりの場所を書いたパンフをネットで入手していたものの、実際の道と地図の関係がよくわからない。大分うろうろしてしまった。
取敢えず聖天宮がこの辺りの目玉らしい。ケバイ江戸時代の建物だけかと思ったら、治承3年齊藤実盛の創建とあるではないか。治承3年(1179)と言えば11月が清盛のクーデター、翌治承4年5月には以仁王の挙兵、8月頼朝、相次いで甲斐源氏、義仲の挙兵、治承寿永の戦乱が幕を開ける。
この境内に実盛像がある。鏡と筆を手にし、小松の多太神社にあるものと大変良く似ている。同一鋳型ではないかと思われる。
猫を3匹見た。どれも結構愛想よしの別嬪さん。
南下し、福川という川の南岸沿いに長井神社と齊藤館跡を見つける。長井の荘というのはこの川を挟んで広がっていたらしい。
福川の堤防から、この右下に館跡 画面中央、木の茂っているあたりが長井神社
大体この辺と言うことでこの地を離れる。
行田市のさきたま古墳群へ向かう。もう4時だ。資料館へ飛び込む。とても外の古墳群を見て回る余裕はないが、ここまでくれば寄らねばならぬ。
北陸新幹線を大宮で下りる。大宮は初めてだ、というより埼玉は初めてだ。これまで通過したことしかなかったのだ。
駅から氷川神社まで歩く。意外と距離がある。
武蔵一之宮、堂々たる参道が延々と続く。この神社の縁起は古く延喜式にもあるれっきとした社である。境内に蛇池という池があり、湧水が神社の起源とか。だとすれば丘陵地帯の水利を司った神であろうか。
しかし平家物語の時代、すなわち平安末から鎌倉にかけてはどうもはっきりしない。この時代の武士、豪族は地名を名乗るのだが、誰がどうこの辺りを押さえていたのか分からない。鎌倉街道も上道はずっと西だろうし、中道も微妙に避けているような。
それに、このあまりに直線的な参道は鎌倉の鶴岡八幡のそれのようにひどく人工的なもののようだ。大宮は江戸時代中山道の宿だったようだ。この町の起源は江戸期をさかのぼらない気がする。中山道の宿は江戸から板橋・蕨・浦和・大宮・上尾と続く。日本橋-大宮間は30km程度だそうだ。健脚なら上尾まで足を延ばしたかもしれないが、大宮あたりで一泊というのが多かったのか。江戸という巨大都市の発展を前提に成立し、本当に栄え始めたのは明治天皇の行幸、その後の鉄道のターミナルとなってからだろうか。
しかし、参道は散歩道としてはよい。お正月には初詣の客であふれたというが、鎌倉ほどの観光地でもないので、参詣、犬の散歩と自然な人の流れだ。随分大きな樹がある中に桜が咲いていた。冬桜か。
翌朝も参道を歩き、神社には寄らず、埼玉県立歴史と民俗博物館へ。
さすが関東武士団の本拠武蔵国の歴博だ、将門の乱に始まり鎌倉期にかけて、面白く見た。
実はこっちの方が主ではないかと勘繰っていたくらいの古墳時代だが、もちろん充実。何しろ稲荷山古墳のさきたま古墳群を擁する。
非常に大きな馬の埴輪にも驚いた。このサイズで完形だとは。
奥州の富は「金・馬・鷲羽」に象徴されたという。古墳時代には馬は東国の象徴だったのか。
博物館から大宮公園駅へ向かう。関東の冬は寒くても晴れていると聞いていたが、この天気は何なのか、暖冬のこの冬一番の寒さというのだが、霙に時折霰が叩きつける、風も強い。これでは雪が積もらないだけで北陸と変わらない。
大宮駅へ戻り、高崎線で熊谷へ移動。
関東は不案内だ。度々行っている東京でさえ、まあ分かるというのは上野の博物館界隈くらいのもの。
新宿・渋谷はおろか有楽町も日比谷も怪しい。埼玉県は東京の北側にあるらしい。さらにその北に西から群馬・栃木・茨城らしいが実は茨木と栃木はほとんど区別がつかない。千葉は房総半島のある所と心得ているが、北辺はどの辺りか見当もつかない。更に都市名となると筑波が茨城か栃木か、足利が栃木か群馬かもわからない。
正直埼玉県なんて昔の武蔵の国とは言うものの東京の衛星都市ならぬ衛星県くらいにしか思っておらず、あんなに広いとは思わなかった。
今回の三日で少しアウトラインだけは見えたような気はする。
大宮 氷川神社 埼玉県立歴史と民俗の博物館
熊谷 妻沼 聖天宮 長井神社 斉藤屋敷跡
行田 さきたま史跡の博物館
畠山重忠公園 嵐山史跡の博物館
大蔵館跡 義賢墓
吉見百穴
息障院
毛呂山町歴史民俗資料館 鎌倉街道
河越館跡 川越市街
木村茂光「鎌倉と街道」より
以上が今回巡ったところである