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曽我物語についてちょっと考えた

2020-01-15 | まとめ書き

「曽我物語」とか「曽我兄弟の敵討ち」とかいう言葉は知っていた。
”曽我兄弟”が、”親の仇の誰かを”、”敵討ちをした(殺した)”話となるのだろうがそれ以外はすこぶる怪しい。富士の裾野の巻狩りで起こったのだと言われれば、そう聞いた気もしてくる。ということは鎌倉時代初期か?
実際にあったことなのか、全くの物語なのか。

そして粗筋を読んでみたところが、全く混乱してしまった。まず曽我兄弟の仇討というからには、討たれたのは兄弟の父、曽我の某という人物に違いないと思いこんでいたのだが、曽我祐信は母と再婚した養父だという。河津三郎祐泰というのが討たれた父の名である。敵の名は工藤祐経で、河津祐泰を殺したのは祐泰の父伊藤祐親を恨んでいたからだという。恨みの理由は祐経・祐親の祖父である工藤祐隆にまで遡らないと理解できない。まるで芝居の筋書きのような話ではないか!
それで図書館に曽我物語の現代語訳があったので読んでみた。

ここまでで工藤・伊東・河津と出てきたが、これは実は同じ一族である。伊東や河津の姓は居住地による。祐経・祐泰・祐親・祐隆・祐信と似たような名が出てくるので、どれが父やら祖父やらこんがらかる。因みに曽我兄弟の名は兄十郎祐成・弟五郎時致である。弟は北条時政を烏帽子親として元服した所為か名前の系統も変わっているが、兄が十郎、弟が五郎なのだ。彼らの父祐泰は嫡男だが三郎、その弟は次男とされ、九郎祐清と名乗っている。三郎はまだ太郎・次郎が早逝したと考えることは可能だが、十郎や九郎はいったいどこから出てきたのか。

こんなややこしい話を江戸時代の人は「助六、実は曽我の五郎」などと云う歌舞伎を楽しんでいたのだろうか。一応曽我物語の知識がないと無理だと思えるのだが。

さてこの事件の元凶ともいうべき工藤祐隆、曽我兄弟の祖父のまた祖父で5代前の人物である。藤原家の系統で伊豆半島の狩野にいた。伊豆半島の西部をほぼ縦断して流れる狩野川というのがある。その上流域という。山の多い地域のようだが馬を飼うにはいいところだったらしい。祐親の祖父で養父の祐隆は狩野の地を出て伊豆半島東部に荘園を開く。伊東市を中心に宇佐美・大見・久須美、南方の河津も含む総称久須美荘の開発領主である。伊東に主に住み、伊東氏を名乗り、後には久須美入道と号した。
狩野は四男茂光に譲った。彼が狩野氏の祖となる。

工藤祐隆は妻が死に、跡取りも死んだ(次男・三男は?と思うが、書いていないものはわからない)ので後妻をもらう。ところが後妻にではなく後妻の連れ子の女子に子を産ませ嫡男祐継とした。また死んだ跡取りにも子供がいた。この子は孫なのだが、次男として養子にした。

この時点で??が募る。どう考えても孫の方が年上だ。息子の死んだ年に連れ子が息子を産んだとしても1歳は違うだろう。それどころか実際には10歳ほども違うようだ。更にこの孫、伊東祐親はかなりのやり手だ。才幹がなくて嫡男とはしなかったとは考えにくい。それだけ孫より連れ子の子が可愛かったということか。
久須美入道は嫡男とした連れ子との子祐継に所領の大半を譲り、孫の祐親(次男として養子にした)には河津の荘を譲る。
年上で嫡孫の自負のある祐親としては不満があることは誰の目にも明らかだろうと思う。久須美入道には見えなかったのだろうか。
と、ここまでが曽我兄弟の敵討ちに至る前段ともいえようか。

月日は移り、伊東荘等を継いだ祐継は元服前の子を残して病死する。死に際、祐親は義兄の子の後見となることを約する。つまり子供の元服の時まで所領を預かる。実際、祐親は子供の面倒を見、元服させ、自分の娘万劫御前と娶せる。この少年の元服した後の名前が工藤祐経である。祐親は祐経を京都へ連れて行く。この一族は平家に従う地方豪族であり、大番役などにも出仕していたらしい。また荘園は領家として重盛に寄進され、ついで大宮(藤原多子、近衛・二条の二代の后として知られる)を本家として寄進されている。工藤祐経は、平重盛、ついで大宮に仕える。祐親・祐経の関係は形式上は叔父甥、実際には祐隆の孫同士、ということになるが、年齢的には叔父甥でおかしくなかったろう。
祐経は利発な子だったらしい。若くして武者所一臈(筆頭)次いで左衛門尉になった切れ者である。また歌舞音曲にも才能があったようだ。

利発なだけに"叔父"祐親の所領の横領に気づく。訴えは起こしてみたものの、実際に伊豆の領地を領する祐親は平家にも重んじられ、祐経の訴えは通らない。更に祐経は妻が土肥実平の息子の嫁になったことを知る。元服当時の婚姻にどれほどの実態があったか分からないが、これはかなりの暴挙だったろう。当然ながら、祐経は激怒する。

土肥実平は伊豆の豪族の一人で、平家物語にも度々名前が出てくる。
なお、この土肥遠平の妻は曽我物語には曽我兄弟を支援する早川の叔母として出てきて、祐経との関係は感じさせない。

激怒した祐経は伊豆の大見荘の郎党、大見小藤太・八幡三郎に祐親父子の殺害を命じる。大見荘というのは久須美荘の中の一荘で祐継が所領していたと思われる。

そして、祐親の嫡男祐泰(曽我兄弟父)の殺害の場なのだが、これがまた飲み込みにくいときているのだ。
伊豆の奥野の巻狩りの帰り道、安元2年(1176年)10月の事だったという。

安元2年とは鵜川騒動の年だ。安元3年には神輿が京都に入り重盛率いる武士に矢を射かけられる。更に太郎焼亡と言われる大火がある。

その頃、武蔵・駿河・伊豆・相模の豪族が500騎も集まって伊豆の奥野で狩りをして遊ぼうというのだ。
祐親は喜んでもてなす。7日間の巻狩りだという。この狩りには"流人"源頼朝も参加している。河津町の曽我八幡神社にあった50円の資料パンフには伊藤祐親が頼朝を慰めようと催した狩りだとあったが、どういう発想かわからない。

巻狩りは遊興というより軍の実践的訓練とされる。武蔵・駿河・伊豆・相模の豪族が結束を固め軍事的示威のため、と考えるものの誰に対するものだったのか。頼朝に対して?、頼朝はこの時点でそんなに意識される存在でもなかったろう。結構あちこちで歩いたりもしていたようだが、基本流人である。これもまるで分らない。

いっそ虚構と考えてしまえば、つじつまは合う。吾妻鏡は治承4年に始まる。他に確たる同時代史料があるとも思えない。
曽我の敵討ちは建久4年(1193)富士の裾野の巻狩りの場だ。これに合わせて討たれた父祐泰も巻狩りの場で死ななければならなかった。相撲の場は祐泰がいかに素晴らしい人物であったかを語るためのものである、というのはどうだろうか。

狩りの後酒宴となり、更に相撲が催される。相模の大庭景親の弟、俣野景久が強く、また小面憎い自慢をする。長老土肥実平をも馬鹿にした言動をとる。ここに河津祐泰が挑む。河津祐泰が圧勝し、この時の技が相撲の「かわず掛け」だというのだがホンマかいな。

俣野景久は治承4年(1180年)石橋山で頼朝の手勢佐奈田与一と組打ちする。佐奈田与一は直後に俣野の郎党に討たれ死ぬ。石橋山には佐奈田神社というものがある。
石橋山の頼朝を攻めたのは北から大庭景親、南から伊東祐親である。

俣野景久は頼朝が房総半島経由し相模に戻った後に逃れ、京都へ行き平家の北国下向に参加する。平家物語に、齊藤実盛らと語り合うシーンがある。源氏の方が優勢だし、あっちへ行くか、という話に 俣野は「我らはさすがに東国では、みなに知られて名あるもののでこそあれ。吉についてあなたへ参り、こなたへ参らうことも見苦しかるべし。」と言っている。ひとかどの武将とみられる。

しかし、曽我物語の相撲の場での俣野は、河津を引き立たせるヒールである。大力で知られ、ヒール扱いしても文句の出ない俣野が河津の相手役に選ばれたのだろう。

この狩りの帰り道、祐泰は大見小藤太・八幡三郎に射かけられる。腰から大腿骨にかけて当たったようだが大動脈でもやられたのだろうか。祐親も射られたものの大事には至らない。

大見小藤太・八幡三郎は大見の荘に逃げ込み、更に狩野に隠れるが、祐親は祐泰弟祐清に命じ攻撃する。大見小藤太は逃げるが、八幡三郎這討ち死にする。

狩野荘は狩野茂光(祐隆4男)が領している。彼は頼朝が挙兵するといち早く参じ、石橋山で戦死する。
建久4年の頼朝の富士の巻狩りでは狩りの参加者は数えきれないほどだが、それに先立って行われた那須野・入間野などでの巻狩りは射手は22人に絞られ、他の参加者はただ勢子として使われるのみで、弓矢を持つことも許されなかった。22人の者は「弓馬に達さ令め、又、御隔心無き之族」とされたもの、つまり頼朝が信頼できると判断していた者ということになるのだが、その中に狩野介宗茂がいる。茂光の子である。

工藤祐経がいつ京都から戻り、頼朝に仕え始めたかは「比較的早い時期」だろうとはされるが不明のようだ。祐泰殺しの下手人が狩野に行ったというのは、狩野茂光と祐経ともコネクションも想像される。

また曽我兄弟の母親は茂光の孫だという記載を見つけたが(朝日日本歴史人物事典の解説)根拠が何かは解からない。
祐親は娘たちを三浦・北条・土肥などと婚姻をさせている。次男祐清の妻は比企氏の娘だ。狩野の娘を息子の嫁にしても不思議はないネットワークではある。

祐泰死亡時、妊娠していた妻(曽我兄弟母、曽我八幡のパンフでは満江御前と言っているが根拠不明)は男児を産み、その子を祐泰弟祐清の養子とし、一万・箱王二人の息子連れで曽我祐信と再婚する。この女性は祐泰との結婚前には伊豆の目代仲成という者の妻であり、男女二人の子を産んでいる。更に曽我祐信との間に3児を産む。

この婚姻は、曽我物語では伊東祐親がいささか強引なくらいに勧めた話に読める。何故だろうか?つまり河津荘の権益をどう考えていたのだろうか。確かに兄弟は5歳と3歳の幼さだが、自身あるいは次男に後見させ、元服を待って一万に継がせる、というのが順当のように思える。しかし、祐親は自分は年寄の上に敵持ちでいつ殺されるかもわからないからお前たちの面倒は見られない、というのである。祐清が後見できない理由は明らかではない。
実際には祐泰の横死が安永2年(1176)10月、その4年後治承4年(1180)8月、頼朝の挙兵がある。だから祐親も次男も一万が元服する年まで後見はできなかったわけなのだが、そこまで見通していたわけでもないだろう。平地の少ない伊豆半島で開けた土地のある河津は貴重だろう。この荘は誰の管理下となったのだろうか?
曽我祐信というの人も伊東家の遠縁のようであるが、伊東よりはるかに弱小の地方豪族のようである。祐親の態度はまるで母子を厄介払いでもするように曽我に押し付けたように見える。
とはいえ、曽我は小田原の東に広がる丘陵でなかなかいいところに見える。召使や乳母もいて、貧乏暮らしを強いられたというのは嘘である。

曽我祐信は石橋山の合戦に大庭景親の手勢として参戦。2か月後、房総半島経由で諸方の武士団を従え、頼朝が戻ってくる。
畠山重忠をはじめとする石橋山では平家方だった武士団が頼朝に帰順する。おそらくこの頃、曽我祐信もまた頼朝に下るのであろう。大庭景親は殺されるが、弟俣野景久は逃げて平家軍に加わる。伊東祐親・祐清親子は船で伊豆半島を脱出、平家への合流を目指すが捕らえられる。祐親は殺されたとも許されたのち自分を恥じて自殺したともいわれる。
祐清は妻が頼朝の乳母比企の尼の娘だったこともあり、許されるが平家へ走る。篠原合戦を前に語り合う東国武士の一人伊東助氏=祐清である。

曽我祐信は範頼・義経に従い西国遠征にも参加している。平家物語第9巻、寿永3年(1184)一の谷の合戦で大手を攻める範頼軍の中に曽我太郎助信がある。

というわけで、曽我兄弟一万9歳・箱王7歳が雁の群れを眺めて実父のいないのを嘆いたという頃から、養父祐信もまた大変な日々を送っていたのだった。

曽我物語を読んで困惑するのは、曽我兄弟がロクでもないすねかじりのガキにしか見えないことだ。
親類縁者にたかって歩き、一緒に敵討ちをしようなどと云っては困らせるさせる。母親の先の結婚で産んだ息子(京の小次郎)など兄弟からすれば兄と思うかもしれないが、小次郎にすれば赤の他人の男の敵を一緒に討とうと言われても困惑するだけに決まっている。兄弟が頼朝の寵臣工藤祐経を殺したらどんな災難が降りかかるかわからないと三浦与一が訴え出ようとするのも当然のことに思える。

それに対し、北条時政・三浦義盛・畠山重忠など錚々たる面々はまるで兄弟の仇討を後押ししているとしか思えない。彼らには彼らの思惑があるのだが、それをいいことに、兄弟は家々を泊まり歩き、飲み食い、笠懸で日を送る。
曽我の里では養父祐信、祐信の先妻の子で嫡子祐綱がいるから出る幕がないということかもしれないが、手伝うという発想はない。それどころか、街道筋を見張るという名目で女遊びだ。曽我物語は十郎祐成と大磯の虎の愛情物語を謳い上げるが、若くて美人の遊女を独占するにはどれほどの金が掛かることか。酒もよく飲んでいる。
兄弟は和歌も詠み、それなりの教養を身に着けている。討ち入りの場での曽我の十人斬りでも明らかな武芸の達者。弟は箱根で稚児をしていた時代に教育を受けたのかもしれないが、それにしても、養父の薫陶があってのことと思われる。仇討に酔い、恩返しは知らないようだ。

弟箱王は箱根権現に寺入りする。稚児として上がり行く行く僧になるはずであったが、勝手に飛び出して元服した。
その烏帽子親が振るっている。北条時政なのだ。兄が弟を連れて行く。兄は北条館へ入り浸っていたようだ。時政は弟に時の字を与え、息子義時が四郎だからと五郎時致と名づけるのだ。烏帽子親というからには、引き出物・金子も渡したろう。この時政の肩入れは尋常ではない。十郎の大磯遊びのスポンサー候補だ。

ウイキペディア「工藤祐経」の項には
【『吾妻鏡』における祐経初見の記事は、元暦元年(1184年)4月の一ノ谷の戦いで捕虜となり、鎌倉へ護送された平重衡を慰める宴席に呼ばれ、鼓を打って今様を歌った記録である。祐経は重盛の家人であった時に、いつも重衡を見ていた事から重衡に同情を寄せていたという。同年6月に一条忠頼の謀殺に加わるが、顔色を変えて役目を果たせず、戦闘にも加わっていない。同年8月、源範頼率いる平氏討伐軍に加わり、山陽道を遠征し豊後国へ渡る。文治2年(1186年)4月に静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞った際に鼓を打っている。建久元年(1190年)に頼朝が上洛した際、右近衛大将拝賀の布衣侍7人の内に選ばれて参院の供奉をした[注釈 2]。建久3年(1192年)7月、頼朝の征夷大将軍就任の辞令をもたらした勅使に引き出物の馬を渡す名誉な役を担った。祐経は武功を立てた記録はなく、都に仕えた経験と能力によって頼朝に重用された。】 とある。

つまり祐経は武者というより、格式ばった席で恥をかかない家来として頼朝に仕えていたようだ。
平家物語では、平重衡が鎌倉に連れてこられた場面では千手の前という女性が出てきて重衡のモテ話となっている。
頼朝は京下りの者を官僚として大江広元・中原仲業等を重用している。彼らは例えば「男衾三郎絵詞」に見られるような日々武芸を磨き、馬や武具の手入れに余念ない東国の武士の暮らしとは全く違った生活を持っていた。
東国の武士たちにしてみれば、全くの京者たちには我慢ができたかもしれない。しかし工藤祐経は伊豆の者である。同質であるはずの中の異質さ、ここに北条時政・三浦義盛・畠山重忠などの祐経に対する反感の根源があったのではないか。
加えていえば、祐経による祐泰暗殺の手口はどうも陰湿である。狙撃犯を雇い、狩りだ、相撲だとは思わないが、所用あって出かけた通り道を狙って襲撃した。敵役の資格はある。

曽我物語では、敵討ち当日、三浦や畠山は兄弟の祐経襲撃の計画を察しており、更に尻押しするような言動がある。騒ぎが起こっても静観を決め込む。実は大変な出来事であったこの事件の手引きをしたと取られても仕方のない言動なのだが、彼らに御咎めはなかった。

この事件は将に鎌倉殿が征夷大将軍となり、坂東の武者政権を確立したと言われる建久3(1192)年の翌年、武威を諸方に示すべく行われた巻狩り最終日の出来事である。頼朝嫡男頼家が鹿を初めて狩り、新田忠常が猪に飛び乗り退治した話あり、大団円となるはずだった。
しかしテロリスト2名が潜り込み、鎌倉殿寵臣を暗殺、おとなしく引き上げるどころか、名乗りを上げ、取り押さえようとした名立たる御家人衆はたった二人の侵入者に振り回され、漸く一人は討ち取るものの、頼朝の宿舎に逃げ込むものまでいて、テロリストに頼朝の宿舎まで入り込まれる始末だ。鎌倉へは頼朝が殺された、などと云う誤報が届くという大混乱ぶりだ。これでは征夷大将軍の威勢もあったものではない。将に頼朝の顔に泥が塗られたのである。

捕らえられた曽我五郎時致は仲介を排し、頼朝の直の尋問に答える。五郎の率直かつ堂々とした態度に打たれ、頼朝は五郎を許そうとまで思ったが、工藤祐経遺児の懇願と仇討の連鎖となるのはまずいという梶原景時の言葉を受け殺した、となっているが、とても額面通りには受け取れない。

五郎が頼朝への遺恨として、敵の祐経を寵愛して使ったこと、祖父の伊東祐親が殺されたこと、を上げている。
同心者は兄弟の他いない、と言っている。

昔からこの事件は単なる仇討ではなく、頼朝を狙ったクーデター、或いは御家人間の衝突であったという説は多いらしい。
クーデター未遂の場合、真っ先に疑われるのは北条時政、ついで兄弟の支援者、三浦・畠山・土肥あたりだろうが、彼らは処罰を受けていない。疑いがあったなら、あの頼朝が許すはずは・・と思ってしまう。単に兄弟に同情しただけと解されたのだろうか。

御家人同士の衝突説だと、巻狩りの後、大庭景義・岡崎義実が相次いで出家し鎌倉を追われているらしい。大庭氏はほとんどが平家方なのだが、景義のみは頼朝方だったらしい。岡崎義実は三浦義明の甥に当る。石橋山で戦死した佐奈田与一の父である。ただ彼らと曽我兄弟がどう絡むかわからない。

更に範頼と常陸の御家人が結んでのクーデターとの説もある。この説は、事件後範頼が殺され、常陸の八田氏が誅せられたことから逆に出てきた説ではないのか。常陸の佐竹は義経追討の事寄せ奥州を征伐した頼朝にとって長年の誅すべき相手であり、義経征伐を断った範頼はいつか殺すべき相手として頼朝の脳裏にあったかもしれない。

曽我五郎は頼朝の堀親家という御家人を追って頼朝宿所へ入った。逃げるにあたって主君のところへ、というのはありえないことであり、それ自体スキャンダルだ.。
何が何だかわからないが、取敢えず、何があったにせよ、曽我兄弟の仇討、ということで事を収めた鎌倉殿の手腕なのだった。
平家物語では、頼朝の平重衡への言葉として「父の恥をきよめんと思ひ立ちしうへは云々」とある。父義朝の敵討ちを意図した挙兵、と読める言葉である。彼は敵討ちを全面否定できないのである。

養子がしでかした騒動に恐れ戦いたに違いない曽我祐信だが、曽我の里は安堵され、租税も免除、兄弟の菩提を弔うように、と言われたのだった。

曽我兄弟祖父祐親に関して嫌な話がある。祐親の娘八重姫が頼朝の子を産む。しかし祐親は平家を憚り、子を殺し、娘を他家に出し、更に頼朝を殺そうとしたというのだ。
伊東市の曽我祐親の墓の案内板には「伊東祐親は流罪にされた頼朝を伊東で預かるが、自分の娘との間に生まれた頼朝の一子を平家への忠義のために殺害してしまう悲劇的な人物である。」とある。伊東市教育委員会公認と言える御説なのだが、どうなのだろうか。

まず、伊豆の国市韮山の蛭が小島が頼朝の配流地であった場合、伊東館があったという伊東市物見台公園までの直線距離は16-17kmである。しかし山越え、事実上倍の距離が見込まれるだろう。まず娘は夜な夜な通えない。江戸時代の一日の旅程は8里、約32kmだし、頼朝が馬を使えば一応可能だとしておこうか。しかしどうやって知り合うのだ?

蛭が小島が流刑地だというのは後世の比定らしい。配流地は伊豆としかないらしい。伊豆最大の平家方豪族伊藤祐親が監視役を引きうけるのは不自然ではない。その場合、自分の本拠地伊東に住まわすだろう。娘と知り合うチャンスはある。
しかし、祐親が3年の京都大番役を済ませて帰ってきたら3歳の若君がいた、というのはどうも。数え年なのだろうから、祐親が京都に出かけた直後、仲良くなって子供ができ・・ということなら一応つじつまは合うが、その間、京都と伊東の間で通信はなかったものか。祐親の他の娘たちの婚家は北条・三浦・土肥である。娘は合従連衡の大事な手駒だ。勝手な恋愛は許されない。この場合むしろ祐親の積極的仲介が想像されてしまう。頼朝は流人であるとともに貴種でもある。祐親の打った手の一つだったかもしれない。
祐親次男祐清の妻は比企の尼の娘、その縁で祐清は頼朝の援助をしていた。息子の援助は黙認し、孫を殺すほど平家を憚るというのは矛盾だろう。

頼朝も伊豆で青年期を過ごす。祐親の娘かどうかはともかく当然女はいただろう。しかし、孫殺しの話はそもそも無理があるように思える。

頼朝が政子と結ばれ北条の婿となったのは明らかであり、祐親が頼朝を殺そうとした話は「うわなりうち」だったという説もあるようだ。うわなりうちとは先妻が後妻を襲う、というものらしいが、よくわからない。

頼朝は伊藤祐親にわたくしの意趣がある。と云ったそうで、何らかの因縁を感じさせるが、別に女や子供の事を考えなくても、祐親の言動に流人の頼朝のプライドを傷つけるものがあり、その事を言ったと解することも可能だと思う。

頼朝の挙兵後、伊藤祐親は平家方として頼朝の征伐に動き、北条は頼朝をバックアップする。平家物語では、大庭景親からの飛脚で、頼朝の挙兵が平家に知られるが、大番役で京にいた畠山重忠の父の重能はどうせ北条以外同心すまい、と言っている。

蛭が小島と北条の里とは直線距離2kmを切るからいいのだが、頼朝が伊東にいたとすると今度は政子とどうやって知り合ったのだ、ということになってしまう。どこかの時点で頼朝は伊東を抜け出し、北条方へ行ったと思われるが、不明である。頼朝と政子の第一子大姫は治承2年(1178年)の誕生となっているからその1年ほど前となるのだろうが。治承4年の頼朝挙兵時にはこの婚姻は東国に知れ渡っていたと思われる。

さて、子殺しの話であるが、子供千鶴丸は柴漬けにされたという。簀巻きにされて水に放り込まれたとある。
平家物語の壇ノ浦の後、源氏による平家残党探索で、子供が殺されていく場面がある。第12巻六代だが「むげにおさなきをば水に入れ、土にうづめ、少しおとなしきをば押し殺し、刺し殺す。母の悲しみ、乳母がなげき、たとへんかたぞなかりける」
よく言われるのは、清盛は頼朝・義経らを殺さずに失敗した。頼朝が自分が同じ目に合わないように平家の子らを殺したということなのだが。しかし、本当に広範囲に行われたことなのか?なかったこととは思わない。しかし片っ端から行われたこととも思われない。

宗盛の子が殺されたのはほぼ確実だが、重盛の孫、維盛の子の六代は 文覚の口添えがあったとはいえ当座許されているのだ。
重衡も自分は子供がいないからかえって憂いがない、などと云っているが、いないのは正妻との間だけだったらしく、さすがモテ男、子供はいた。出家し箱根山で僧侶になっている。平家公達の子であっても出家を条件に許された例が多いのではないか。
幼児が殺されるのはよくよくの事ではなかろうか。

伊東祐親の場合は、まして自分の孫でもあるのだ。頼朝との確執をドラマティックに書き立てる物語だろうと思われる。

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