物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20200307 白河

2020-03-12 | 行った所

琵琶湖疎水は明治になって作られたものだが、その疎水沿い、冷泉通り熊野橋付近に白河南殿址がある。北殿址は丸太町通り沿い、京大熊野寮の敷地内になる。

行ってみたところで何もないのであるが、意外に現御所に近いかな、と思う。本来の平安京内裏からは京洛の外の位置だったのか。

引き返し、冷泉通りを岡崎の方へ向かうと得長寿院跡がある。

平家物語第1巻、冒頭の祇園精舎は文字通りの前書きとすれば、物語が始まる最初は、殿上の闇討ち。冒頭、忠盛が鳥羽のために得長寿院を造進し、三十三間の御堂を建て、千一体の御仏を奉ったことが語られる。
忠盛は但馬の守になり昇殿を許される。これを面白くないと思った公卿らがつまらぬ虐めまがいを計画し、却って恥をかくのが殿上の闇討ちである。

更に岡崎公園へ向かう。この辺りには六勝寺と呼ばれた勝の字を持つ六つの寺があった。最大のものは法勝寺で、九重の塔があったという。
平家物語第12巻は冒頭で元暦2年(1185)の大地震を伝える。白河の辺、六勝寺みなやぶれくづる。九重の塔も上六重を振り落とす。得長寿院も、三十三間の御堂を十七間までふりたおす。
つまりそのころまではこれらの建物も平家の栄華を見てきたわけだ。平家が滅び、建物も崩れ去ったのを都の人々は無常の思いをもって見るしかなかったろう。



法勝寺址は今は私学振興会かなんかの持ち物らしい。


20200307 青蓮院

2020-03-12 | 行った所


青蓮院へ向かう。ここも何十年ぶりだ。きれいな庭のあったところ、というほどの記憶しかないが、そのおぼろげな記憶は正しかったようだ。春の日差しが降り注ぐ縁でぼうっと庭を見る。

平家物語の成立に切っても切れない縁があるであろう天台座主の慈円が門主となっていた。大懺法院もこの近くに作られていたらしい。

信濃前司行長、徒然草で平家物語の作者と伝えられる。但し藤原行長、下野前司であったらしい。この人が慈円の援助で書いたと。
但しもちろんいろんな説がある。慈円その人を作者に充てる人もいる。

この寺院は門跡、皇族等が門主になる寺で格式が重んじられる。内裏を模したような部屋があった。宸殿である。簾内というのはこれか、と思う。

孝明天皇常用の輿、というのがあった。重そうだ。たぶん8人がかりで担ぐ。ちょっと外出したくてもいちいちこんなものに乗らなくてはならなくてはさぞめんどくさいだろう。

雛道具の特大版かと思うような長持ちなどもある。絵巻で行幸の行列にはこんなものも描かれていた。


20200307 三十三間堂・法住寺

2020-03-12 | 行った所

小松谷から東大路へ出て少し下って東山七条、三十三間堂へ行く。何十年ぶりだろう、あの頃は後白河も清盛もとんと興味がなかった。むしろ通し矢の方に関心があった。
駐車場が空いている。入口辺りはだいぶ変わっている。東側の塀を修復したのだろう、朱塗りの色が鮮やかだ。
驚いたことに桜が咲いている。梅はもう終わりだ。

中の長い長い内陣を埋め尽くす千手観音の群れはやはり人を圧倒する。がしまいにはなんだかうんざりしてしまう。天井の一部に彩色が残っている。この通りに復元するとここも平等院のような極彩色になるのだろうか。
三十三間堂は清盛が後白河のために建てたと言っていいものだが、これにはモデルがある。現存しないが、得長寿院、清盛の父忠盛が鳥羽のために建てた三十三間堂である。

三十三間堂の正式名称は蓮華王院本堂という。東側に法住寺がある。今は京にはありふれた寺の一つにしか見えないが、三十三間堂も含めこの辺り一帯が法住寺殿と呼ばれ、後白河の本拠となっていたはずである。宝蔵もあった。後白河は絵巻物なども含めた「宝」を集めていた。頼朝に見せようとしたが、鎌倉殿は興味を持たなかったと云うモノ。



寿永2(1184)年11月法住寺殿に参集する大軍に義仲軍が襲撃する。精鋭義仲勢の前に寄せ集めた後白河方はひとたまりもない。鼓判官平知康とやらは院宣に逆らうと罰が当たるとか言って踊ったというのは酷すぎるが、ともかく指揮系統のままならぬまま、戦いそのものは義仲の圧勝、法住寺殿は火に包まれる。但しこの時三十三間堂は焼けてはいない。


法住寺脇に後白河陵があり宮内庁の管轄、お役所らしく土日は入口が締めてある。




その隣は養源院、淀君が父浅井長政の菩提のため建てたとか。


20200307 小松谷

2020-03-12 | 行った所

滋賀から山科を通って京都に入る。普通1号線を真直ぐに大谷廟の脇を通り五条に出るが、今回は京都市街地に入る前に左に道をそれた。
京都女子大の付近に出る。この辺りが「小松谷」というらしい。小松谷平重盛の屋敷があったのは正林寺という寺の所だという。その寺は見つけたが幼稚園併設で門が閉まっていた。立派な楼門のある寺ではある。

ここは京へ入る東南の入口その押えが重盛だったのだろう。

平家物語第3巻「灯篭の沙汰」には重盛が建てた四十八間ものの精舎が出てくる。一間にひとつづつの灯篭、6人の美女を配し毎月14・15日には点灯し浄土さながらであったっという。
四十八間と言えば三十三間堂より遥かに長大である。三十三間堂は長辺約120メートル、それを考えれば180メートルほどにもなるのだろうか。三十三間堂のように内部を埋め尽くすように千体千手観音を置いたわけではないから雰囲気は全然違ったろうが、壮観ではあったろう。
それもこの辺りにあったのだろうか。

清盛の長男として重きをなしてきた重盛だが、清盛が時子を娶り、時子の妹(滋子:建春門院)が後白河に愛され、高倉を産み、高倉に時子の娘(徳子:建礼門院)が入内する中で、嫡男としての地位が揺らいでいく。鹿が谷事件で妻の兄成親が殺され、立場は一層悪くなる。長男維盛の妻は成親の娘でもある。
重盛は病を押して熊野詣をして帰洛してほどなく死ぬ。胃潰瘍か十二指腸潰瘍での衰弱死と言われる。
平家物語では灯篭の沙汰の前後に重盛のエピソードが集まる。