物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20200308 西八条邸址

2020-03-13 | 行った所

梅小路公園、京都駅を出て西へ向かうJR線が山陰線が北に分かれていくあたりだ。広い公園で京都水族館も隣接。
この辺りに清盛の西八条邸があったという。公園の案内図に描いてなく、だいぶうろうろしてしまった。


法住寺殿にしろ、白河殿にしろ、ここにしろ、広いこと広いことあきれるばかりだ。
例えば東寺へ行ったりすると、充分大きな寺だと感じる。立派な塔があり、弘法市も開かれる。しかしこの邸はもっと広いのだ。
ここには時子が常時住まいした。安徳も行幸した。平家物語によれば、清盛は終日この外孫と遊んだという。

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20200307 下賀茂神社

2020-03-13 | 行った所

八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光の兄、鴨次郎義綱は賀茂神社で元服したのだが、上賀茂だったのだろうか、下賀茂だったのだろうか。

下賀茂神社、実はここも数十年前に一度はきたことがあるはずだが、見事なくらい何も覚えていない。
葵祭は賀茂神社のお祭りと知ってはいたが、行列を群集の頭越しにちらりと見たことがあるだけだ。
流鏑馬もしていたのだな。馬場では子供たちが自転車で遊んでいた。

糺の森と呼ばれる広い敷地。神のものとされたからこそ残ってきたのだろう。
その中で流れていた小川が「風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりけり」のならの小川であったことは帰ってから知った。

日本の歴史は災害の歴史といってよく、平家物語の時代もまた多くの災害を刻む。安元の大火・養和の飢饉・元暦の地震、天災と人災がまじりあい、より弱い者がより悲惨さを極めていく。
この時代の災害に言及したもののほとんどが方丈記に触れている。鴨長明は自分が見聞きしたありさまを率直に記している。「行く川の流れはたへずして」の冒頭こそは記憶にあるが、こういう時代の証言者であるとは知らなかった。
方丈記の作者鴨長明はここの禰宜の家系だったそうだ。河合神社に方丈はあるが長明は結局ここの禰宜にもなれなかったらしい。

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20200307 鹿が谷

2020-03-13 | 行った所

安元3年(1177)鹿ケ谷にあった俊寛僧都の山荘にて 藤原成親・平康頼・西光ら+後白河が平家への「謀反」を企てる謀議を開いた。多田行綱の内通を受けた清盛は成親・西光を殺し、康頼・成親の子成経・俊寛を鬼界が島へ流す。
平家物語では、酒を飲み、歌い踊るという陰謀の会議というよりは、宴会をしているとしか思えない様子が著わされる。
なんとも眉に唾つけざるを得ないのは、あまりに清盛にとって都合のいいタイミングの謀議露見であることだ。比叡山の強訴に怒った後白河に比叡を攻めるようにせっつかれ、苦り切っていた清盛にとって、一挙に形勢を変えるチャンスとなった。
後白河院政派と二条親政派の間をアナタコナタしていた清盛ではあるが、二条は若くして死んでしまう。清盛室時子妹滋子が後白河の寵妃となり高倉を産み、後白河・清盛の蜜月が生まれるのだが、これも長くは続かない。滋子も若くして死に、院近臣たちと平家は人事・所領の扱いを巡って対立する。
平家の専横を何とかしよう、という「謀議」ならば必ずあったであろう。しかしこの時期山荘にたいそうなメンバーが集まり騒いでいたかというとありそうには思えない。あったとしたら、もっと日常的で、ひそやかで、シリアスな集まりだっただろう。
安元2(1176)加賀の鵜川で西光の息子が引き起こした鵜川騒動がある。鵜川寺→白山→比叡山と騒ぎは強訴へと発展する。これは院近臣と叡山との対立であり、後白河が比叡山と事を構える口実となる。比叡山を討つと言って兵を集め、実は平家を攻める。とここまで考えていたかどうか。

哲学の道の東側山寄りに鹿が谷という地名がある。霊鑑寺という寺がある。その脇の坂の入口に「この奥俊寛山荘址」の碑がある。
かなりの急坂である。民家の尽きる辺りまで登ったがそこで引き返す。山荘跡地らしきものはさらにこの上らしい。道も舗装が途絶え登山道のようになる。もう少し用意が必要だ。

こんなところまで酒・ご馳走運んで宴会するかな?他の者はともかく後白河は輿だ。青蓮院にあったような8人がかりで担ぐものだろう。比叡や鞍馬・熊野にも相当出かけているのだから、このくらいは平気かもしれないがお忍びは難しいかも。いざとなればさっさと逃げだす後白河の事だから徒歩だったかもしれないが。

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