平家物語第8巻「妹尾の最期」
前段で、義仲の手勢は水島の合戦で平家の手痛い反撃を食らう。義仲は「やすからぬことなり」と山陽道を馳せ下る。
倶利伽羅峠で生け捕った妹尾太郎兼康は厚遇されていたが、巧言を弄し申し出る。「兼康の知行地備中妹尾は馬を飼うにはいいところ、ご案内します。」妹尾を預かっていた倉光三郎成氏は30騎を連れ妹尾と先発する。妹尾の息子は50騎ばかりで迎えに出る。備前三石の宿で落ち合う。妹尾が親しき者が酒をもって出てくる。喜びの酒盛りとなるのだが、倉光以下30人は酒に酔い潰されて寝てしまったところを殺される。「一々に皆さし殺してンげり。」そして妹尾たちは行家が知行していた備前の国府を襲う。
備前国府(岡山市内)から逃げ出した下人は、播磨・備前境の船坂で、山陽道下向中の義仲に行き会う。
事の次第を知った義仲はさすがに「斬って捨てべかりつるのものを」と後悔したのだった。今井兼平も、だから私も何度も斬れといったものをと嘆いたのだった。

国道2号線の船坂山隧道。このトンネルの上が船坂峠になる。
トンネル上




船坂峠にあったのは平家物語関連の碑にあらず、太平記であった。
児島高徳という人物のことは南朝の忠臣として、戦前では誰知らぬものではない、という存在だったらしいのだが、今ではその存在も怪しまれている。太平記以外の史料には見えない人物のようで、太平記の作家小島某にも擬せられる。
児島高徳は隠岐へ流される後醍醐天皇を奪還すべく、船坂峠で待ち受けるが、後醍醐護送の一行はここを通らなかった。後に後醍醐の美作の宿舎に忍び込んだ高徳は「天勾践を空うするなかれ 時に范レイ無きにしも非ず」と立木を削って書き残して去ったということである。
国境碑
ここより西備前


この奥に鹿がいた。カメラを探る間に跳ねて行ってしまった。

備前側から東へ向かうとこの標識がある。
三石は宿場町のはずだがその面影を探すのは難しい。
三石駅

一里塚は新しいものだがあった。
和気神社へ行こうと県道46号を走っていたところ、和気清麻呂公碑・政庁跡への看板を見つけ、曲がってみた。

たまたま見つけたのは倉光三郎成澄の塚だった。

裏に書かれているのはよく読めない所もあるが、「倉光三郎は源義仲の臣で、妹尾太郎兼康と戦い藤野寺で死んだ」とある。藤野というのはこの辺りの地名である。
しかしここで言う倉光三郎成澄とは誰のことだろう?倉光二郎・三郎という義仲の手勢がいる。加賀の国の住人で、「倶利伽羅落」で二郎が妹尾兼康を捕らえる。この二郎の名は成澄だ。三郎の名は成氏という。
その場で斬って捨てるべき平家の猛将妹尾兼康を義仲は斬らない。妹尾の武勇を惜しみ三郎成氏に預ける。三郎は妹尾を懇ろにもてなす。妹尾も殊勝げに振舞い、半年を過ごす。そして備中へ案内すると甘言を弄すのである。甘言に乗った義仲・倉光が甘かったと言えばそれまでだが、妹尾の方が一枚上だったのだろう。
妹尾の備前へ入った途端、三石での酒宴で妹尾は倉光三郎ら30騎を酒で盛潰し、刺し殺す。つまり三郎成氏は三石で死んだのだ。この碑の場所から東へ直線距離でも10km近くある。
妹尾は備中吉備津に兵を集め義仲勢に対抗するが、今井兼平の猛攻を受け逃げ出す。追う義仲勢の中に倉光二郎成澄がいる。一度は妹尾を生け捕った二郎は弟の敵と追いすがる。板倉川で追いつき、組打ちになる。二人とも大力の剛の者、上に下にと組み合うが、共に淵に落ちる。倉光は泳げず、妹尾は水練が達者、これが命運を分け、倉光二郎は返り討ちにあってしまう。これは吉備津辺りでここから西へ30km以上離れている。
何らかの伝承があって作られた碑だとは思うが、よくわからないのだった。

倉光三郎碑付近
(この話は、源平盛衰記にあると、かなり後で知った)