物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

周防鋳銭司 

2021-03-24 | 行った所

鋳銭司(すせんじ)、という言葉を知ったのは「純友の乱」関係の本を漁っていた時、純友勢に襲われた処だという。皇朝十二銭、という言葉は知っている。どこで作られたかというとなんとなく奈良周辺だろうと、少なくとも畿内だろうと。だが、あちこちにあったのだ。

資料館は長沢池のほとりにあった

ここは大村益次郎の出身地で、資料館展示は、半分が大村関係、もう半分が鋳銭司遺跡だった。村田蔵六こと大村益次郎は好きになれそうにもない人物だが、明治維新の大立者の一人、やはりすごい才能を持った人だったのだろう。

驚いたのは系図、平康頼!本当か?! 美貌と声の良さでのし上がった後白河の腰ぎんちゃく的なイメージしかなかったが、大徳寺と云い、ここと云い思いもかけぬところで遭遇するのだった。

天慶3年(940)賊徒により周防鋳銭司が消失、が純友による焼き討ちだろう。

散乱するふいご口


柳井市 池の浦

2021-03-24 | 行った所

山口県玖珂というICから南下する。柳井市内を通りさらに南下。室津半島という半島が突き出している。先端は上関と云う。つい目と鼻の先の長島という島に橋が架かっている。


室町時代の足利義満の厳島詣では厳島で終わらず、更に西国へ向かっているが、義満の一行はここを通ったらしい。

上関の手前、半島の東端位に池の浦という集落がある。

ここにも平家の伝承があるらしい。

平家の白旗って!?思わず突っ込みたくなるのだが、雲間に消えるのは赤旗より白旗の方がいいのかな?

 池の浦道路公園からの眺め

 池の浦トンネル。これを越えると上関へ向かう。

 

池の浦から室津半島東側を北上して戻り、半島の付け根を横断、平生町という所で百済部神社というのがあった。名前がゆかしい。


狛犬が可愛い。


宮島 厳島神社

2021-03-24 | 行った所

平家物語では度々出てくる厳島神社だが、改めて拾うと

先ず、第二巻「教訓の事」治承1年(1177)6月の事、鹿が谷の陰謀が漏れ、後白河側近たちが殺されたり、流罪になったりするのだが、清盛は武装をしていきり立っている。この時清盛は厳島明神から賜った銀蛭巻小刀指している

続いて同じ第二巻「徳大寺厳島詣出の事」 治承1年11月の事。徳大寺実定は平家の繁栄に出世の手蔓なく嘆いていた。そこで厳島詣でをして、清盛の歓心を買うことにする。作戦は図に当り、、という話である。

同じく第二巻「卒塔婆流の事」鹿が谷事件で鬼界が島に流された平康頼の後日譚。島で作った卒塔婆が厳島に流れ着き、康頼・藤原成経は許され京へ戻ることになる話。

次は、第三巻「大塔建立の事」 治承2年(1178)めでたく徳子に男児が生まれる。娘の男児出産を祈って、清盛は厳島へ月詣でしていたのだった。更に清盛と厳島の関わりとして、安芸守の時、高野山を修理6年がかりで行った。その時老僧が現れ厳島の改装を勧め姿を消す。清盛は厳島の大改修を行い、厳島に詣でる。小長刀賜る夢を見、目覚めると刀があった。これが「教訓の事」で清盛が帯びる刀である。

第四巻「厳島御幸」治承4年(1180)3月 譲位した高倉院が厳島に詣でる  

第五巻 治承4年も秋となると反平家の烽火がきな臭い。「物怪の事」舞台は福原、ある青侍の見た夢である。神々が会合をしている席から厳島明神が追われ、八幡菩薩が清盛の刀を取り上げ頼朝へ渡すことにするという。如何にも後付けの夢である。

治承寿永の源平合戦には厳島は出てこない。
承安4年(1174)3月にあったはずの後白河院の厳島詣でも出てこない。これは建春門院滋子も同行したはずである。

平家物語の人々は瀬戸内海を船で旅して厳島に至るのであるが、我々は宮島口から船に乗る。10分ほどの乗船である。

 弥山

鳥居修復中

干潮だったので鳥居近くまで行ける。

 

 能舞台
以前来た時には満潮時だったのか、水に浮かぶ社殿だったように思う。

清盛神社なんてのもある。新しい。

 清盛神社辺りから本土を見る

宝物館で平家納経を見る。あきれるような工芸品だ。紙、料紙からしてが凝りに凝ったものだ。彩色、描画、そして文字。
読み解く力はないが見たかったし、見てよかった。

↑宝物館前にあった大鳥居の根元

後白河が手植えしたという松があった。↓

後白河御手植えと称する楠は京都の新熊野にあり、それは800年を超す樹齢を誇っていた。

本殿

勅使の渡る橋だそうだ。

 こけそう・・・

 これは戦国時代

 


音戸瀬戸

2021-03-24 | 行った所

広島高速2号線から呉道路に入る。海田湾を長い橋で渡る。

入船記念館へ行ったが、海軍自慢のような展示であまり面白くなかった。

音戸瀬戸を見下ろす高烏台という所に清盛の日招き像があるというので行ってみる。意外に距離があり、山道を登っていく。

高烏台は日本軍の砲台があったところだそうだ。

確かに音戸瀬戸は見下ろせるが、清盛の音戸瀬戸開削の史料はないようだ。この辺りの地名を「警固屋」という。見張り小屋でもあったのだろうか。

昨日の雨は上がったものの、雲が多く風がきつい。

音戸大橋を渡る。音戸の瀬戸は本土と倉橋島の間にある。今二本の橋で結ばれている。


随分高い橋だが、下を船が行き交うためだろう。

橋を渡りすぐ「うずしお」という観光施設がある。基本土産物売り場で、一部が資料館、展望台になっている。

うずしおのすぐ前に清盛塚がある。


潮の流れは確かに早い。

清盛による開削云々はともかく、彼の乗った船は間違いなくここを通ったであろう。

足利義満が1389年に厳島に行くのにここを通った。大船団が急流に苦労した、ということがあったそうである。

第二音戸大橋で戻る。


鞆・能登原・平家谷

2021-03-24 | 行った所

鞆の浦は牛窓のごとく古代から知られた風待ち潮待ちの港。瀬戸内海東西のほぼ中央にある。


山内譲の「中世 瀬戸内海の旅人たち」によれば、高倉の厳島詣・足利義満の西国遊覧では鞆には寄っていないようだ。

鞆の資料館は足利義昭の鞆幕府の展示があった。義昭は流離の将軍である。兄が殺され、急遽将軍となったものの権威は低く、支える者も弱かった。若狭から越前朝倉の一乗谷へ、それから信長のバックアップで京都に入るも、信長の京都を追い出され、毛利等を頼ったとまで知っていたが、鞆にいたのか。

雨が激しくなり眺望はきかない。

小松寺。

 重盛の創建と伝わるそうだ。

鞆も平家の瀬戸内航路の拠点の一つだったのだろうか。

 山中鹿之助の首塚があった

 

能登原・平家谷

鞆の西に能登原という所がある。ここで平家の公達たちは操舵術を習ったそうな。ほんまかいな、なのだが、水練はどこかで習ったのだろう。宗盛・清宗は溺れられない水練の達者、当然他の公達も泳げただろう。だからこそ二重に鎧を着こんだり錨を抱えて飛び込むことになるのだ。「妹尾の最期」で妹尾兼康は倉光二郎成澄に追いつかれ、板倉川の辺で組んず離れつの死闘となる。組んだまま淵に落ち、倉光は無水練、妹尾は水練の達者、これが勝敗を分ける場面がある。北陸加賀出身の義仲の手勢の倉光と、瀬戸内を制した平家方の妹尾との違いだったのだろうか。義仲勢は船軍を不得手とし、水島の合戦でも、大将足利義清・侍大将海野幸広まで戦死するという大敗北を喫してしまう。それも船を踏み破りて、とある。

殿原神社は小さな社だが、社殿は新しいげだ。

 
この何かのコピーに見える説明書きの元の史料が知りたいものだ。

能登原の北の山中に平家谷がある。

直接行ける道が分からず、ぐるっと大回りしてしまう。

通盛は一の谷で死んだことになっている。どうして此処に祀らわれるのか。


近くには平家所縁と称するものが点在するらしい。


雨に祟られつつも、行ってよかったと思う所である。

近くに平家谷の椿園があるとか。山羊を飼っているところがあった。