物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

敦賀半島の古社

2022-08-06 | 行った所

敦賀半島の東側は敦賀市、西側は美浜町となる。東側が敦賀と言っても敦賀半島の先端の立石岬を西に回り、白木集落までは敦賀市の範囲だ。白木には高速増殖炉もんじゅがあり、立岩岬の東の明神には新型転換炉ふげん、日本原電の敦賀原発がある。西の美浜町側の丹生には関西電力の美浜原発がある。つまり敦賀半島の先の方には4つもの原発があることになる。原発銀座と言われるのも不思議ではない。

白木や明神の集落は陸の孤島と呼ばれたところだ。漁村として細々暮らす、そういう所に敢て原発を作った。陸の孤島に道路が通じ、長いトンネルが走る。
しかし、これらの地域はかつて、優れた技術を持ち、時代の先端を行った人々が暮らした地でもあった。裏日本の不便な半島の村としてではなく、外国の文化を受け入れ、熟してきた先進地区だった時もあるのだ。

気比の松原の脇を通り、敦賀半島を北上していくと常宮神社がある。気比神宮の奥の院と呼ばれるところで、お祭りは気比の祭神が宮司と共に船で気比から常宮へ赴くというものである。

ここには9世紀統一新羅時代に造られた鐘がある。ただその時代からあるものではなく、豊臣秀吉の朝鮮出兵時に戦利品として持ってこられたものだという。当時敦賀を領していた大谷刑部により奉納されたものだという。

 

白木・白城はシラギ即ちそのまま新羅である。小さな集落だが白城神社は手入れがされ立派なものである。由緒が描かれたものがなかったのでよくわからなかった。


集落のすぐ脇から「もんじゅ」が見える。


美浜町の中心部から菅浜・竹波・丹生と集落をぬう道は、海岸線に沿ってうねうねと走っていたものだが、これらもトンネルの多い立派な道になっている。
古来どこの海岸線も美しかったのだろうと思うが、特に「美浜」と名付けられた美しい浜の中でも水晶浜と呼ばれる海岸は、驚くほど美しく、観光客を集めるスポットでもある。だが、ここからは美浜原発が見える。老朽原発というとやり玉にあがる美浜原発は1960年代に建設され、1970年の大阪万博会場に送電され、原子の光として華々しく喧伝された。40年越えどころか50年越え、2004年には冷却水配管が破損し、死者まで出したこの原発は、2021年福井県知事の合意により再稼働された。

菅浜の集落の中に須可麻神社がある。祭神はアメノヒボコの子孫とか。更に神功皇后の祖母に当たるとか。

 

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敦賀 気比神宮

2022-08-06 | 行った所

気比神宮は越前一の宮だ。
JR敦賀駅の方からメインストリートでアーケード街の8号線を北上し、もう一つのアーケード街、神楽通りとぶつかるところに、気比神宮の赤い大鳥居がある。神楽通りが気比神宮の参道だ。敦賀祭の時は神楽通りに派手な山車がずらりと並ぶ。気比神宮の境内はそれなりに広いが、祭りのときは屋台と人とですっかり埋まる。


古い由緒を誇る神社だが、それだけに不思議な伝承に彩られる。
一応祭神は・伊奢沙別(いざさわけ)命 ・仲哀天皇 ・神功皇后 ・日本武尊 ・応神天皇 ・玉妃命 ・武内宿禰 となっている。

記紀によれば、日本武尊は仲哀天皇の父で、神功皇后は仲哀天皇の妻で、応神天皇はその子ということになっている。武内宿禰というのは300歳まで生き、天皇5代に仕えた忠臣で特に応神の養育係のような役回りになっている。玉妃命は玉依姫の別名ということだから海神の娘ということになる。
伊奢沙別というのは気比大神の別名ということで気比神宮の主神となっているのだが、妙な話がある。
応神と伊奢沙別とが名前の交換をしたという話だ。応神は諡名だから、名はホムダワケという。だから元はイザサワケがホムダワケで応神のもとの名はイザサワケだったのだろうか。古事記では名を交換したお礼に気比大神は海岸にイルカを御食(みけ)として差し出したのだという。
気比神宮本殿の左手に九社神社というのがあるが、その一つもイザサワケを祀っているらしい。


このイザサという名にはアメノヒボコというこれも不思議な伝承の人物が絡む。アメノヒボコは新羅の王子だったが、7種だか8種だかの宝物を持参して日本へやってくる。その宝の一つが「イザサの太刀」その名が応神の本来の名であり、その名を捨て新たにホムダワケという名をもらったと。
応神は仲哀の子とはなっているが、父親が死んで一年半もして生まれた子に誰が親子関係を認めるのだろう。仲哀は神の神託に逆らって死に、神功は神託に従い宝の国である新羅に攻め込み、財宝を得、帰国する。そこで月の満ちすぎる赤子を産み、武内宿禰と共に東へ向かう。仲哀の他の妻の産んだ息子たちと戦い、これを破る。応神の異母兄たちにしてみれば、戦を挑むのは当然だ。父を殺され、誰の子かわからぬ異母弟に継がすわけにはいくわけがない。
武内宿禰は応神を連れて近江から越前の敦賀に禊に向かう。そこで気比大神との名前交換云々が出てくるわけだ。応神の父は住吉大神とか武内宿禰とか、でも新羅の誰かでもいいかもしれない。とはいえ神功皇后の征韓伝説もどこまで真に受けたらいいのやら。船は海中の魚たちが集まり、えっさほっさと一気に運ばれる。そのまま船は陸地まで攻め込む。なんだか夢の中の物語のようだ。でも広開土王の碑は辛卯の年(391)倭の侵攻を伝える。異説があるとはいえこの頃朝鮮半島と倭国の間で頻繁な行き来はあったのだろう。戦いあり、交易あり、通婚あり、人も文物も技術も動く。
敦賀にはもう一人のアメノヒボコともいえる伝説の王子がいる。ツヌガアラシトだ。ただ新羅ではなく任那の加羅の王子ということになっている。敦賀という地名はツヌガアラシトに因る。
曺智鉉の「天日槍と渡来人の足跡―古代史写真紀行」によれば日本海に突き出た半島として、能登・敦賀・丹後・島根の四つを挙げている。ただし敦賀半島はこの中で一番小さい。事実若狭湾としてぼこんと落ち込んだように見える大きな湾は、越前岬から丹後半島に達する。その中には様々な湾口が入子となって複雑な地形を構成するが、敦賀湾・舞鶴湾、宮津なども包含される。
しかしその中で敦賀は確かに古代には特異な位置を占めていたのであろう。
神功皇后の名はオキナガタラシヒメだ。息長(おきなが)氏は近江の豪族だ。その娘がヤマトの大王の妃となり、大王の熊襲遠征に同行する。しかし大王と共に瀬戸内を西行したのではない。オキナガタラシヒメは敦賀に赴き、そこから海岸沿いに西に進み、大王と合流する。敦賀は近江の外港だったのだろうか。
敦賀は現代福井県嶺南地域に属する。しかし越前・若狭という区分となれば敦賀は若狭ではなく越前なのだ。敦賀は越前の道の口、しかも敦賀郡の範囲は嶺北の南部、現在は丹南と言われる地域を含む。織田町辺りまでは敦賀県なのだ。
応神は記紀の系図の中でも特異な存在だ。ヤマトの王者の墓、前方後円墳は大和盆地の東南部に起源をもつが、4世紀末から5世紀にかけて河内へ移動し、羽曳野市・堺市にかけて巨大な古墳が作られる。副葬品もどちらかというと呪術的な意味の強い鏡などから、馬具、鉄器、須恵器へ移行する。その新しい王権の起源は応神に求められる。そしてこの王権を継承した大王たちは中国史書に現れる倭の五王に比定される。特に5番目の武はワカタケルこと雄略である。
応神に始まる王権も雄略の後、それほどの年を経ず廃れる。そして出てくるのが異色の王継体ヲホド王、彼は応神の5世の孫を名乗るが、前王権の血を引く娘を娶る。実質的に継体の後を継いだのは、この娘の産んだ欽明だ。国史の資料を集めさせたという天武も継いだ持統も、記紀ができた奈良時代8世紀の天皇たちも、皆欽明の子孫たちだ。


敦賀は港として栄え、気比社も尊崇を集めていただろうが、建久2年(1191)、火災で焼け落ちる。その再建に力を尽くしたのは藤原信定という後鳥羽院の側近であった。承久の変の後は、当然あまり良い目には合わなかったのだろう。
南北朝期には、南朝につき、宮司一族は金ケ崎城に籠り討ち死にしたという。それでもそれなりの勢力は維持していたらしいが、戦国末期、織田信長に攻められた朝倉氏に味方し、気比社は廃絶の憂き目にあう。再興したのは越前に入った結城秀康であった。

気比神宮本殿の東側、土公という気比社の故地だという。

いったいいつ頃のものかというのはさっぱりわからないが、後ろに見える山は天筒山だ。金ケ崎城と尾根続きで、南北朝の新田義貞勢と斯波高経勢、下って朝倉と織田勢が相争った戦場でもあるのだが、この角度から見れば、神奈備と言っていい端正さだ。気比社は海に向かっているとともに、この山を磐座としたところだったかもしれない。

土公の近くに角鹿神社がある。ツヌガアラシトを祀る

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