美浜町を南から北へ流れる川を耳川という。
舞若道が耳川を渡る地点の少し西に彌美(みみ)神社がある。一の鳥居のごく近くに舞若道の橋脚が建っている。
この写真の手前に高速道路の橋脚がある
参道を入っていく。古い神社だが最近改修されている。
若狭の耳別氏という豪族がいた。平城京出土の木簡などにも見える彌美だ。
彌美神社の祭神は 室毘古(むろびこ)王で、耳氏の祖ということになっている。室毘古は開化天皇の皇子で若狭に土着し、人々を導いた、ということになっている。記紀というのか旧辞・帝辞の誤りを正し云々は各地の豪族を天皇家の系図に組み込み序列化しようという意図に外ならない。覚えている人がいるような時代のことでは困るから、その起源は古い時代へ古い時代へと持っていく。新羅からの人の流入は4世紀後半から5世紀にかけての波状的に繰り返されたことだと思えるのに、それを象徴するアメノヒボコの話ははるか昔の垂仁天皇の時代になっている。
それはともかくここはなかなかいい神社だ。
若狭には「王の舞」と呼ばれる祭礼の際行われる行事がある。平安時代に京都から伝わったものが今に残るのだというがよくわからない。飛鳥時代に伝わったという伎楽とは関係がないのかな、と思ったりもする。
彌美神社の北東、耳川西岸に興道寺廃寺跡がある。国の史跡になっているが、標識がある以外は何が何だかわからない状況である。
ただこの辺に国分寺に紛うような大寺院があったことは間違いないらしい。
この近くには興道寺窯跡があるはずである。窯跡は見つけられなかったが、6世紀前半に操業した若狭では最も古い須恵器窯だという。
興道寺廃寺付近は美浜町の中心部、美浜町役場やJR美浜駅にもほど近いのだが、美浜町役場とJR美浜駅の間の国道27号線沿いに獅子塚古墳がある。関西電力原子力事業部のすぐ横である。
27号線その他に削られ墳丘はよくわからないが全長30メートルを超える前方後円墳で、横穴式石室には良質のベンガラが塗られていたという。須恵器などが出土し、興道寺窯跡で作られたものであるようだ。
角杯型須恵器は新羅系のものであるらしいが、耳別一族と関係があるのかもしれない。
若狭歴史博物館展示
若狭歴史博物館展示
そこからさらに北へ行くと、ゆうあい広場という全天候型ゲートボール場がある。ここは松原遺跡という製塩遺跡だ。
もう海岸は近い。ゆうあい広場北側に炉の一部を芝生に残しているのだがよくわからなかった。案内板はある。
若狭には製塩遺跡は多い。8世紀の平城宮趾出土の木簡には若狭の彌美からの調として送られた塩の荷札とみられる木簡が複数ある。
https://www.youtube.com/watch?v=uECTZOO97VI 美浜歴史文化館の【歴文おもしろ展示品1】「弥美郷の木簡」展示解説 がアップされている。
*図説福井県史から わかさの製塩遺跡の分布図