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下間頼照死没場所

2024-07-14 | 行った所

三国町下野の下野神社は九頭竜川の堤防を降りてすぐのところにあり、白山神社である。

拝殿に登れば鳥居越しに白山が望める。
神社には台座の赤色が目立つ小さな地蔵堂があり、下間頼照の供養碑となっている。
*地蔵堂供養碑
*地蔵堂
下間筑後頼照は本願寺の坊主だ。それも法橋という高い地位にある法主顕如の側近だ。
天正2年(1574)越前一向一揆が荒れ狂い、朝倉家の旧家臣たちを殺し、または追い払い、織田の武将たちも追い出した。本願寺派喜んだ、越前一国が自分たちの領地になったと思ったのだ。加賀の大坊主たちも入ってきたが、直接支配したかったのか、石山本願寺から側近を派遣した。それが下間頼照だった。本願寺の大坊主は坊主といっても貴族と同様だ。絹物を着、口も奢っている。そんな上級坊主がお付を引き連れてやってきた。その連中の威張ること、威張ること。加賀並の自治を期待した現地の失望は大きかった。
「坊主には極楽往生をこそ頼んでいるが、下僕のように召し使われるのは承服できない。我々は富田・桂田以下の諸侍を退治したのは、自分たちで国・郡を治めたいと思ったからだ。この思いで強敵を討ち滅ぼしたのに、何も知らない上方衆の下知で彼らの下知で彼らの思いのままにされるとはもってのほかだ。」(辻川達雄「織田信長と越前一向一揆」)これが現地の門徒宗の本意だ。
一揆は織田信長の再侵攻を前に既に崩壊しかけていた。
それでも大坊主たちは門徒をかき集め、木の芽峠を中心に、信長軍に対応しようとする。木の芽城西光寺丸・鉢伏山観音寺丸・虎杖城・火打城・杉津城・中河内丸・河野城・河野丸砦、下間頼照は火打城に入る。本覚寺・超勝寺・興行寺・本向寺などの大坊主たちも各城郭に入る。しかし士気の低下は如何ともしがたい。脱走相次ぎ、砦は雨漏りする。食料確保もままならない。
杉津の守備に就いたのは堀江景実という武将だが、既に敦賀の信長に内通の使者を送っている。敵を追い払うどころか迎え入れ、逆に襲ってくるのだから堪らない。
織田勢は一気に越前中央部に入り、大虐殺が始まる。
その中で、頼照は逃亡を図る。いち早く火打を出て府中に入ったのだろうが、日野川を渡れずそのまま北上する。三国湊を目指し、三国から加賀へというつもりだったのだろう。


乞食僧の身なりだったという。外見は乞食でも下着は絹物、胴巻きには金子を巻いていたことだろう。
日野川は九頭竜川と合流し河口へ向かう。下野付近では川幅は大きい。どうやって川を渡ろうかと思案したことだろう。
下野の地蔵堂付近で村民と遭遇する。高田は門徒だ。同じ親鸞の教えから発したとはいえ、高田派と本願寺派ではほぼ敵同士だ。
紅絹の褌、鉄漿のあと、上方訛りで本願寺派遣の大坊主と見破られ討取られた。
頼照の首は近くの黒目稱名寺に届けられた。稱名寺坊主は、三国で頼勝を見たことがあったため、見破って柴田勝家に届け出た。勝家は首を信長に届け、稱名寺に感状を出した。

 黒目稱名寺
頼照を殺した村民は基本的には農民だが、兵農分離前である。敵を殺し、落ち武者を討つのに躊躇いはなかっただろう。殺したのは頼照が初めてでもなかろう。それでも、下野神社の碑文にはずいぶん後ろめたいみたいなことが書いてある。戦時と平和な時とで感覚が違うのだろうが、おそらく金子を奪ったりもしているのだろう。
碑文1
碑文2

*碑文3

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