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九頭竜川の戦い

2024-07-20 | 行った所

九頭竜川は越前の北部をほぼ東西に横切り日本海へそそぐ。
永正3年(1506)加賀一向一揆が大挙して越前に南下した。その勢30万というのだが、いくら何でも数字が大きすぎるだろう。半数としてもまだ多い。もちろん加賀一国の一向宗徒だけではない。越中・能登・越前の門徒、朝倉に越前を追われた旧守護・守護代の残党、朝倉孝景の子でありながら弟を殺し、細川政元のところへ走り永正1年加賀から侵攻した朝倉元景の残党なども加わっている。
朝倉氏は、九頭竜川を防衛ラインとした。寄せての攻め口は4つ、東から鳴鹿(なるか)・中の郷・高木・中角(なかつの)。それぞれ渡しのあった所だろう。それくらいしか渡河場所はなかっただろう。中の郷が攻め手の主力、10万を超える大軍とある。
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朝倉氏の対応もそれに応じたものとなる。鳴鹿には志比の河原に朝倉景職が魚住景固等諸臣を率いて陣を敷く。鳴鹿は平安期から用水の取入れ口があった。現在でも大堰がある。
*鳴鹿の大堰
中の郷は総大将朝倉教景(宗滴)が藤島城に入った。藤島荘という荘園があったが、南北朝期、城郭が造られ、斯波・新田の争うところになった。何も残っていないようなものだが、西超勝寺の裏に土塁のような跡が少しある。
*西超勝寺裏
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高木口には堀江・細呂木・勝蓮華等九頭竜川以北を本拠とする有力者が守る。本願寺派と対立する高田派・三門徒派の門徒も加わっている。後に柴田勝家は北の庄に城を構える。北陸道は北の庄を北上し高木を通り九頭竜川を渡る。勝家はここに舟橋を設置したといわれる。
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中角は九頭竜川北岸に地名を残す。あわら街道と呼ばれる道が南北に走る。えちぜん鉄道も南北に線路が走り中角という駅もある。南岸には新舟橋・灯明寺などのだが、少し西に黒丸町もある。この辺りで九頭竜川は東西の流れを北へと変え、日野川と合流し三国へ向かう。黒丸には小黒丸という城郭があったという。
*小黒丸城の碑
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小黒丸城址の近くの白山神社の碑にも斯波氏の城郭云々があった。


*小黒丸跡から九頭竜川の土手が見える
山崎祖桂父子率いる勢は小黒丸城に入ったという。
この戦いでは使われなかったようだが小黒丸の北5キロほどのところに黒丸城があった。南北朝斯波高経方の城で朝倉広景が守っていたという。布施田橋西詰め北に独立小丘陵があり、九頭竜川の水運の見張りも果たしただろう。

*黒丸城址

九頭竜川南岸中角の対岸堤防下に一向一揆の首塚というものがある。

 

一揆の首塚付近から小丸城方向

数的にはどこの陣も皆一揆勢が圧倒的に有利だったようだ。
戦闘は中角で一揆勢が川を押し渡るところから始まる。騎馬武者が数名渡岸しようとするが、朝倉勢はこれを阻む。一揆の大将が討ち取られたことで、一揆勢は数に勝りながら気勢をそがれる。
高木では一揆勢が馬筏で川を押し渡りながら、朝倉の守備に阻まれた。
鳴鹿では急流を渡れず、矢戰になった。
中の郷では、宗滴以下の朝倉勢が逆に川を押し渡り攻めかかる。渡河をためらう宗滴に貞景が命じたという。
朝倉勢は一気に攻撃に転じていく。追撃に一揆勢はもろかった。
越前を追われ加賀へ逃げかえったのは総勢の3分の一にも満たない大敗であった。討ち死にが多かったというより逃散であったのだろう。

この永正3年7月の加賀一揆の大侵攻には前哨戦があった。永正3年3月には越前・近江国境から本願寺実如が動かした一揆勢が南から越前侵入を図った。これを朝倉氏は追い払っている。
7月の一揆南下を前に敦賀にあった朝倉教景(宗滴)は一乗谷に赴く前に、南条の大塩円宮寺・鯖江の石田西光寺などの一向宗坊主を捕らえて、一乗谷に連行している。後方の憂いを除いたのだろう。
本願寺実如は細川政元と手を組み、越前を狙ったというが、北の加賀・南の近江の一揆を同時に動かすことはできなかったようだ。それができていたとしたら、朝倉はこの時点でもたなかったかもしれない。

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