大垣城に寄ると桜が咲いていた。
大垣城付近から北上し、赤坂宿へ出るつもりがだいぶ東寄りに出たらしい。それでも中山道の標識を見つけ喜んだのだが、何故か東の方へ行ってしまう。おかげで小簾(おず)紅園という小さな公園に出た。
幕末に和宮がこの辺で紅葉をめでたことを記念して作られた公園だという。
「落ちてゆく身と知りながら・・」などと自ら悲劇のヒロイン気取りは頂けないが、周囲はそう扱ったのだろう。
軌道修正し西へ向かうと伊吹が見える。ほどなく赤坂港址へ。杭瀬川の水運を利用した港だ。平治物語の義朝もこの辺りから舟に乗って落ちたのだろう。
赤坂の宿はけっこうな宿場だ。所郁太郎という当地出身の幕末期に活躍したらしい人物の碑があったのだが、彼は洋学を越前大野の藩校に学びに行っている。さらに薦められて大阪の緒方洪庵の適塾で学ぶ。確かに岐阜県と福井県は背中合わせで接している。平治物語にも義平も青墓から越前へ向かったとあった。意外に道はあったのだろう。義朝達一行は街道を行けず、伊吹の山中を踏破して青墓に出たという。間道を伝ったのだろうか。
赤坂の宿の西のはずれに兜塚という物があった。関ヶ原の合戦での戦没者を埋めたのだという。
ここまでくれば関ヶ原は指呼の間と言っていいのか。家康の最初の陣も近くにあるらしい。
更に西へ行くと青墓に入る。中山道の赤坂は江戸時代の宿場だ。平安末から鎌倉は青墓が宿場だ。為義・義朝がよく利用し、頼朝の2度の上洛時の宿に使ったのも青墓だ。現代の地名にも残り青墓小学校というのもあるのだが、あまり良いイメージの地名とも思えないが。
幾つか古墳があるようだ。
近くに義朝次男朝長の墓があるというので行ってみたかったのだが道がよくわからず、漸く登り口まではたどり着いたが、獣除けの柵がある。墓の傍には相当の規模の寺の跡があり、それなりの葬られ方をしてあったのかもしれないが、その寺は別の所に移転してしまったようだ。
青墓の西端で大垣輪中の文字を見た。輪中というとなんとなく小学校の社会科で習ったようなイメージしかないがもっと下流域だと思っていたのだが。