アグネス・スメドレー(1892-1950)
アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー5: 中国共産党幹部との接触https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/0de36463345568f460480f294e3c3223
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スメドレーは、香港での手術後帰国した。 彼女は、サンディエゴにいた家族のもとに暫く落ち着いた。
真珠湾攻撃を切っ掛けに日米戦争が始まると、中国は米国の陣営に与したこともあり、スメドレーの中国礼賛の時局評論にはニーズがあった。 ニューリパブリック誌などに寄贈し、時に講演の依頼もあった。
そんな中で、彼女がもっとも力を入れたのは、先に書いた『中国に捧げる賛歌(Battle Hymn of China)』の編集(一九四三年発表)と朱徳の伝記執筆であった(伝記出版はスメドレー死後の一九六五年)。
スメドレーは、サンディエゴには」長くとどまることはなく、ニューヨーク州サラトガ・スプリングの芸術村(ヤド―:Yaddo)に移った。 そこでは政治劇に熱中し、暇さへあれば劇場に通った。
ガーデニングにも熱心だったが、美しい花には関心がなく、トマト栽培に夢中だった。中国では西安事件をきっかけに第二次国共合作も成立していただけに、この頃の彼女は幸せだった。
中国共産党への肩入れは、ルーズベルト・トルーマン両政権では問題視されることはなかった。 しかし、中国共産党が国民党のそれを圧倒する一九四九年に入ると安寧の生活は一変する。
米陸軍情報部が、彼女はゾルゲ・スパイグループの一員であったとする報告書を発表したのである(二月十日)。 健康不安だったが直ちに中国行を決めた。 彼女の愛した中国は、女性の天国になっているに違いなかった。
まずはロンドンに向かい、そこでビザを取得する考えだった。 英国は、西側諸国では真っ先に中共政府を承認(一九五〇年一月)しただけに、彼女は英国に行けばビザの取得ができると考えたのである。
しかし、旅先のロンドンで持病の胃潰瘍が悪化した。 一九五〇年五月四日、ロンドンで胃の三分の二を切除する手術を受けたが、肺炎を併発しこの二日後に死亡した。
スメドレー死去のニュースを聞いたエドガー・スノーら友人およそ二〇〇人がニューヨークで偲ぶ会を開いたのはこの数日後のことである。 西洋諸国で、彼女の死を惜しんだのは親共産主義のリベラル芸術家や知識人だけであったが、中国共産党政府は彼女の死を悲しんだ。
彼女を殺したのは米陸軍による『根拠のないスパイ疑惑』であると米政府を批判し、毛沢東ら共産党幹部は追悼文を中国紙に寄せた。
スメドレーは、「遺骨は中国に埋めてほしい」と遺言していた。 親族は祖の遺灰を北京に送りその処理を朱徳に託した。
翌一九五一年五月、遺灰は彼女の願い通り、北京八宝山革命共同墓地に埋められた。 中国共産党こそが女性解放の旗手となると信じたスメドレーの願いはこうして実現したが、彼女の喚問を計画していた非米活動調査委員会にとっては、悔やまれる師であった。
END
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