EF50mmF1.8II
上総国分寺の鐘楼。国分寺は聖武天皇が国分尼寺とセットで建立した国家鎮撫の寺である。上総国は親王任国といわれ、国司に親王(つまり皇族)が任じられた国のことを言う。日本全国の親王任国は上総国、上野国、常陸国の三つだけで、いずれも大国である。律令時代には国の等級は四つに分かれており、「大国」「上国」「中国」「下国」の順に規模が大きい。上総、上野、常陸は、現在の千葉、群馬、茨城の地に相当するが、この三国だけが親王任国になっていることから、当時関東は財源としてかなり重要な地位を占めていたことが推察される。
ただし親王任国では、親王が実際に現地に赴任することはなかった為、実務上の最高官は、次官の「介」である。いわゆる「長官=守」「次官=介」「判官=掾(じょう)」「主典=目(さかん)」という四等官の二番目の役職が国政を預かったわけである。
この慣例は、名目的にはかなり後の世まで踏襲されたようで、織田信長も「上総介」、忠臣蔵の吉良も「上野介」とあるように、彼らは皇族ではないので「上総守」「上野守」を名乗ることはできなかった。
ということで、上総国分寺はいわば国分寺の中では抜群の上位ではあったが、残念ながら現在では史跡としてはほとんど残っているものがない。
上総国分寺の鐘楼。国分寺は聖武天皇が国分尼寺とセットで建立した国家鎮撫の寺である。上総国は親王任国といわれ、国司に親王(つまり皇族)が任じられた国のことを言う。日本全国の親王任国は上総国、上野国、常陸国の三つだけで、いずれも大国である。律令時代には国の等級は四つに分かれており、「大国」「上国」「中国」「下国」の順に規模が大きい。上総、上野、常陸は、現在の千葉、群馬、茨城の地に相当するが、この三国だけが親王任国になっていることから、当時関東は財源としてかなり重要な地位を占めていたことが推察される。
ただし親王任国では、親王が実際に現地に赴任することはなかった為、実務上の最高官は、次官の「介」である。いわゆる「長官=守」「次官=介」「判官=掾(じょう)」「主典=目(さかん)」という四等官の二番目の役職が国政を預かったわけである。
この慣例は、名目的にはかなり後の世まで踏襲されたようで、織田信長も「上総介」、忠臣蔵の吉良も「上野介」とあるように、彼らは皇族ではないので「上総守」「上野守」を名乗ることはできなかった。
ということで、上総国分寺はいわば国分寺の中では抜群の上位ではあったが、残念ながら現在では史跡としてはほとんど残っているものがない。