Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

海外旅行の情報を旅行記として綴った記録。EOS5Dとiphoneで撮った写真をあげております。

8:兵馬俑

2010年09月18日 03時49分12秒 | 中国旅行記2010年8月
EF24-105mmF4L

ご存知、有名な兵馬俑の写真です。結論を先に言おう。これほど写真で見た風景のイメージと、実物との差を感じなかった観光地を私は知らない。まんまである。「どうせ幕張メッセみたいな展示場の中に、土に埋まった兵馬俑が綺麗にならべられて展示してあるだけだよ」と行く前には思っていた。実際に見てみてもその通りであった。

さて、この兵馬俑。元々は着色されていた。鎧の色は黒で紫の縁取りが入っている。秦の正規軍は黒かったワケだ。発掘直後はこの色が残っていたが、空気に触れたらあっという間に風化して、ごらんのような土くれの色になってしまったらしい。空気に触れても大丈夫なように保存する技術がまだ確立されていないという事なので、発掘は現在中止されている。よって始皇帝の石棺の場所も当然まだ土の中であり、どういう形でどういう色だか分かっていない。



さて、この始皇帝陵の一部たる兵馬俑が発見されたのは1974年。まだ36年程度しか経っていないが、この発掘によって秦の部隊編成や民族構成などが随分明らかになってきているらしい。それによると、秦の軍団は様々な民族の混成部隊だったそうである。秦は長年西戎と抗争を繰り返していたので、おそらく西戎の民族も流入していたであろう。匈奴などのテュルク系の民族も入っていたに違いない。という事はやはり遊牧民特有の騎馬術に長けた者も多かったに違いない。春秋・戦国時代などに秦が蛮族呼ばわりされていたのを考えれば、やはり秦も胡人と深いかかわりがあったのだろう。
なお、展示されている兵馬俑は、あくまで始皇帝陵の一部に過ぎないという。これよりも地下には宮殿もあるという話である。そこにも相当な数の兵馬の俑がいるのだろう。風化防止の技術が確立されれば、秦の時代の文化や軍制その他のことがもっと明らかになるに違いない。副葬品なども出てくれば一層秦の時代の詳しいことが解明できるであろう。早くそういう日が訪れて欲しいものである。



こちらの写真を見れば、俑の実物大の大きさが分かるであろう。あれ?なんか現代人と同じくらいの大きさのような…。まぁ細かい事はおいておくとしても、注目すべきはやはり馬と人の大きさの対比である。現代のように交配が進んでサラブレッド化した馬とは違い、かなり小ぶりである。これではおそらく最高時速でも30キロ~40キロくらしか出ないだろう。



発見された銅剣である。紀元前220年頃には、まだ銅剣を使っていたらしい。鉄剣もあったはずであるが、銅剣もまだ駆逐されてはいなかったようだ。そりゃ弥生時代にも鉄製農具は使われていたから、中国に鉄剣も沢山あるに決まっている。ただ驚きなのは、その先進文化のはずの秦が、この時代まだ銅剣も使っていたという事実である。鉄の武器が兵士の隅々に至るほど、秦も鉄が安価に生産できなかったのかもしれない。



中国には「槍」と呼ばれるものが5種類あった。これまで文書などからその存在は知られてはいたが、ここ兵馬俑にて発掘されて初めてその存在が考古学的に実証されたのである。左から順に「戟」「矛」「」「殳」「戈」。全部、大体が「ほこ」を意味する言葉だが、その名前と形が違っている。「戟」は良く見ると西洋のハルバードのような形をしている。「矛」は現在の槍の形で、「」はやや大ぶりな槍。「殳」は先端のみが変わった形で尖った槍である。最後の「戈」はピッケルとそっくりである。この中で日本に伝えられたものは「矛」の形状のものだけである。戟や戈は、我々日本人から見ると馴染みのない武器である。中国発祥というよりは、むしろ大陸には広く分布していたものなのだろう。西洋に広まったものはハルバードになり、ピッケルになったのであろう。これらの武器の発祥の地がどこであったのかは分からないが、おそらくは中東・ペルシャあたりなのだろう。



こういうものを見ていると、改めて俑とハニワの関係などが思い起こされる。
精巧さにおいて、はるかにこちらの俑のほうが凌ぐが、東アジアの辺境である倭の国の墳墓に埋められた俑(ハニワ)のレベルは、あの時代にはあのくらいだったのであろう。それにしても、この一体一体に色が塗られていたというのだから凄いことである。