Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

海外旅行の情報を旅行記として綴った記録。EOS5Dとiphoneで撮った写真をあげております。

モンテネグロの夜

2008年10月04日 17時31分57秒 | クロアチア旅行記2008年8月
例によって弾丸行軍で、アルバニアの国境を通過してモンテネグロへ入国。自国は夜となっていた。写真はアドリア海沿岸にある豪華ホテル「スヴェティ・ステファン」の夜景である。夜なので全景が良く分からないと思う。次回に朝の写真をUPします。
 我々はこの近所にあるアパルトメントに泊まった。

アルバニア

2008年10月04日 04時27分32秒 | クロアチア旅行記2008年8月
この国の歴史もなかなか凄い。アルバニアは第二次世界大戦末期、ソ連とレジスタンス運動によって、ナチスドイツを追い出して国土を回復する。首相に就任したエンヴィル・ホッジャは筋金入りのスターリン主義路線を採る。彼は、東ドイツのウルプリヒトと勝るとも劣らないスターリン信奉者である。ホッジャ政権下のアルバニアは同じ社会主義国家でありながら、独自の社会主義路線を歩みソ連と対立したチトー政権のユーゴスラビアとまず断交し、次にスターリンの死後、最高責任者となったフルシチョフがスターリン批判を行うと、ソ連とも外交を絶つ。そして中国に接近しマオイズムにハマり、文化大革命の影響を受けて、アルバニアでは宗教を否定して無神国家を宣言する。しかし毛沢東の死後、中国が改革開放路線に転換すると、中国も批判するようになる。こうして社会主義陣営の中でも孤立していき、ついに1980年代には鎖国状態に至るのである。
 さて、写真のコンクリートの建造物だが、これはトーチカ(防衛陣地)である。これもホッジャの時代にアルバニア全土に作られたもので、数は50万個以上もあるという。
 ホッジャの死後、1990年代に入り、アルバニアは改革開放路線に転換し市場経済が導入されるが、国民の大半がネズミ講などにはまり、アルバニア経済は破綻する。2000年以降は少しずつ経済も回復しつつあるが、未だに欧州では貧困な国である。

 というように、アルバニアという国はなかなかイタイ国家なのである。近年はそうでもないのだろうが、1940年~1990年頃までは、政治的にも経済的にもかなりイタイ国家であった。



写真はビデオから静止画に落としたものである。アルバニアの、とある町中の風景の一角である。ここが東南アジアのどこかだと言われても、違和感なく見られるのではないだろうか?これでも道路はアルバニアの中ではまだキレイに舗装されている方である。アスファルトの敷いていない幹線道路はとても多い。この写真でも路肩にはアスファルトが敷かれておらず、道と歩行者道路の間はジャリ道になっているが、この光景はアルバニア全土で共通して見られるのである。いわば標準なのだ。

アルバニア入国 (九日目:8月30日)

2008年10月03日 04時01分52秒 | クロアチア旅行記2008年8月
ギリシャ北東部の町イオアニナを朝一番で出発し、ついにギリシャ―アルバニア国境に到着。ここでギリシャ側のチェックで時間がかかる。係官が女性だったという事もあるが、アルバニアはかつて欧州の最貧国といわれた鎖国国家であった。今でも経済状況は苦しい国である。自然、チェックが厳しくなるのも分からない事ではない。
 普通はパスポートと自動車保険(グリーンカード)を提示すれば、出国の儀式は終わる。しかし、ここでギリシャの係官はやたら車を調べるのである。車の製造ナンバー(ナンバープレートではない)はどこだ?といいながら座席のシートの下なども探し出す。レンタカーの契約書の提示まで求められた。そしてレンタカーの後ろに貼ってある「HR」というステッカーを見て、「これはどこの国のものなのか?」と聞いてくる。私が「クロアチアだ」と答えると、係官は「いやいやHRとなっているではないか。」という。このやり取りには正直あきれた。クロアチアという国が現地の言葉で「Hrvatska」ということくらい、ヨーロッパ人であれば知っていると思ったのだ。私が「それはフルヴァーツカ・・・」というと、「あぁ」という顔をしてやっと分かったらしい。いったい何処の国だと思ったのだろう。それにしても、アジア人にヨーロッパの国の名称を説明されるというのは、いったいどういうことだろう(笑)
 さて、この係官がなかなか融通の利かない面倒な女(失礼)で、レンタカーの契約書を提示した後、裏に書いてある英語表記のレンタカーの規約を細かく読んできたようで、イチャモンを・・・もといツッコミを入れてきた。曰く「規約のここに、このレンタカーは外国では運転できないことが書いてある」というのだ。私の拙い英語力で、その規約の文章をみてみると、たしかにそんなようなニュアンスの文章が書いてある。しかし、私はこれまでボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、セルビア、コソボ、マケドニアの5カ国の国境を問題なく通過してきた。そしてレンタカー屋の職員も、そんなことは一切説明してはいなかった。それを係官に伝えると、「でも本当はダメなのよ、気をつけてね」と言われてしまった。
 どうもこのレンタカーの契約では乗り入れ禁止国というのがあるのか、それともそもそも国外に乗り入れることが禁止なのか。これは今でも真相が不明である。インターネットでクロアチアのレンタカー旅行記などを見て調べていた時にも、そんな情報はなかった。2003年にドイツでレンタカーを借りたときにも、国外に乗り入れたが問題はなかった。やはりシェンゲン協定加盟国じゃないとダメなのか?しかし、もし国外への乗り入れがダメだとすると、ザグレブで借りたレンタカーは、飛び地であるドブロブニクには厳密的には行けないことになる・・・という事を、頭のなかでずーっとと考えていて、どうも釈然としなかったのだが、それ以上のお咎めもなかったので、係官の気が変わらないうちにサッサと国境を後にしてアルバニアに入国した。
 写真は国境を越えてから1キロも行かない場所。まっすぐに伸びた道、青い空がきれいだったので撮影した。



この日も晴天に恵まれた。しばらく運転していると、街道沿いになにやらコンクリートの小さな建物がいっぱいある。
これについての詳細は次回に書きます。

アテネ2

2008年10月02日 00時00分16秒 | クロアチア旅行記2008年8月
結論から先に言うと、ギリシャ行き計画は一言でいうと「もったない事をした」である。ギリシャにはメテオラ修道院がある、それは知っている。ギリシャにはミコノス島がある、それも知っている。パルテノン神殿以外のギリシャ神殿も数多くあるだろう。しかし、我々はそれらを全て吹っ飛ばした。ギリシャで観光したのはなんとこの神殿だけだったのである。すぐさま北へ進路をとり、車を走らせたのだった。向かう先はクロアチアである。いくらアテネのパルテノン神殿が目的でギリシャに行ったとはいえ、それではあまりに勿体無い。・・・と思う人は多いだろう。
 しかしである。誰が当初からギリシャに行くと予定していただろうか?ギリシャ行きが決まったのは、この旅行の最中であり、従ってまともな計画など何一つない。下調べもほとんど無いのである。さらに日付は既に8月29日であり、しかも前日の28日から走りっぱなしの徹夜状態なのだ。9月3日はザグレブにいなければならない。パルテノン神殿を観光して、すでに午後になろうとしている。ここで一泊すると、ギリシャ出発は30日になる。30、31、1、2の4日間でザグレブまでの約2000数百キロを走破せねばならない。アクシデントが起こったらその旅程を完走することは無理になる。
 それにである。考えても見て欲しい。この旅行はどこまで行っても「クロアチア旅行記」であり、「バルカン半島一周旅行」ではないのだ。既にクロアチアとは六日目にして離れている。流石に調子に乗りすぎた。少しでもザグレブとの距離を縮めておく必要がある。従って、我々はほぼ必然的にギリシャではココ以外の観光は諦め、進路を北に向ける必要があった。
 ただ、まったく同じ道を引き返すのは勿体ないので、我々が選んだ道は以下の様なコースとなった。



白線のコースである。即ち、アテネから西に向い、コリントスを通ってペロポネソス半島に入り、海岸線を走ってパトレーの都市の手前にある海峡大橋を渡って北進する。都市イオアニナを通過して、アルバニア国境を越えるというものである。
 さて、昼にアテネを出発したが、疲労のせいもあってイオアニナの町でダウン。ここで長々長い8月28日~8月29日の二日は終わる。この二日間で走行した距離は実に1600キロ。そのうち1300キロは私が運転した計算になる。