藤田嗣治で考えた その②
国立近代美術館に、アメリカからの“無期限貸与”作品として保管されている絵画群がある。
いわゆる“戦争画”だ。
戦時中戦意高揚のために描かれた作品として、戦後アメリカに接収された。その中には藤田嗣治が描いた“戦争画”も含まれる。
藤田の、“日本人”としてのアイデンティティを求める“日本回帰”は、時代の波に呑まれていった。“日本のために”従軍し、戦地で委嘱された絵画を描き続けた。
この時期、藤田はトレード・マークのオカッパ頭を切り落とし、坊主頭にしている。
人は、生きる時代を選べない。
絵を描いて生活するには、そうするより手段がなかったのだろう。
芸術家の不幸を考える。画家をしてのピークを、制作が最も困難な時代に迎えてしまった不幸。
「アッツ島玉砕」は、芸術家の野心と時代の悲劇が生み出した、異形の絵画である。
折り重なるように描かれた兵士たち。敵も味方も--生者も死者も--判別できないほどにひしめき合う肉塊が大画面を占める。
この大作を見たものは、誰もが圧倒されるだろう。
戦争の恐怖・悲しみ・怒りが直に伝わってくる。
これは、戦意高揚の“戦争画”ではなく、戦争の悲惨さを訴えた“反戦画”であると、現代の時点から見て、私は思う。
だが一方で、かっこうの題材を得た芸術家の悪魔的な側面を感じもする。「残酷図」を描く悦び、唯美主義者の狂気を感じさせはしないか。
まるで『地獄変』の絵師・良秀のような。
「アッツ島玉砕」の画面下部には、小さな花が描かれている。
この花を指して、死者への祈りと解釈する向きもある。
けれど、そりゃないんじゃないか、と思う。
おびただしい〈死〉と、たった一輪の花が対置され、等価であるなんて、いやむしろ〈祈り〉で清算されてしまうなんて、ギマンじゃないか。
先に、私は「アッツ島玉砕」を、“反戦画”と書いた。
それは、描かれた〈死〉を引き受けること、無数の死者への想像力を持つことによって、“過去の戦争”と向き合う価値を持つ。
“反戦”といっても、死者への想像力を欠いた〈祈り〉だけでは、ただの思考停止ではないか。
国立近代美術館に保管されている“戦争画”は、数点ずつ常設展で展示されているが、まとまった展覧会が開かれたことはない。
政治的タブーとして美術史にも位置づけられてこなかった。
私たちにできることは、いつの日か“戦争画”の全貌と正面から向き合うために、戦争に対する認識と想像力のリテラシーを、鍛えておくことではないか。
国立近代美術館に、アメリカからの“無期限貸与”作品として保管されている絵画群がある。
いわゆる“戦争画”だ。
戦時中戦意高揚のために描かれた作品として、戦後アメリカに接収された。その中には藤田嗣治が描いた“戦争画”も含まれる。
藤田の、“日本人”としてのアイデンティティを求める“日本回帰”は、時代の波に呑まれていった。“日本のために”従軍し、戦地で委嘱された絵画を描き続けた。
この時期、藤田はトレード・マークのオカッパ頭を切り落とし、坊主頭にしている。
人は、生きる時代を選べない。
絵を描いて生活するには、そうするより手段がなかったのだろう。
芸術家の不幸を考える。画家をしてのピークを、制作が最も困難な時代に迎えてしまった不幸。
「アッツ島玉砕」は、芸術家の野心と時代の悲劇が生み出した、異形の絵画である。
折り重なるように描かれた兵士たち。敵も味方も--生者も死者も--判別できないほどにひしめき合う肉塊が大画面を占める。
この大作を見たものは、誰もが圧倒されるだろう。
戦争の恐怖・悲しみ・怒りが直に伝わってくる。
これは、戦意高揚の“戦争画”ではなく、戦争の悲惨さを訴えた“反戦画”であると、現代の時点から見て、私は思う。
だが一方で、かっこうの題材を得た芸術家の悪魔的な側面を感じもする。「残酷図」を描く悦び、唯美主義者の狂気を感じさせはしないか。
まるで『地獄変』の絵師・良秀のような。
「アッツ島玉砕」の画面下部には、小さな花が描かれている。
この花を指して、死者への祈りと解釈する向きもある。
けれど、そりゃないんじゃないか、と思う。
おびただしい〈死〉と、たった一輪の花が対置され、等価であるなんて、いやむしろ〈祈り〉で清算されてしまうなんて、ギマンじゃないか。
先に、私は「アッツ島玉砕」を、“反戦画”と書いた。
それは、描かれた〈死〉を引き受けること、無数の死者への想像力を持つことによって、“過去の戦争”と向き合う価値を持つ。
“反戦”といっても、死者への想像力を欠いた〈祈り〉だけでは、ただの思考停止ではないか。
国立近代美術館に保管されている“戦争画”は、数点ずつ常設展で展示されているが、まとまった展覧会が開かれたことはない。
政治的タブーとして美術史にも位置づけられてこなかった。
私たちにできることは、いつの日か“戦争画”の全貌と正面から向き合うために、戦争に対する認識と想像力のリテラシーを、鍛えておくことではないか。