リンムーの眼 rinmu's eye

リンムーの眼、私の視点。

レオナルド・フジタの「さよならフランス、さよならニッポン」

2006-06-26 | art
戦後、藤田は戦時中の“戦争画”をめぐる“戦争責任”を問われることとなる。
藤田は“日本人”として描く“戦争画”にコミットしすぎていた。
また、画壇に属さなかった藤田が一人、画家の“戦争責任”のスケープゴートにされたという面もある。
他の日本人画家は終戦後、“戦争画”を自らの画業から抹消し、活動を再開した。
藤田は、非難の中、日本を離れる。日本画壇は、藤田が「日本を捨てた」と言った。
藤田は、「私が日本を捨てたのではない。捨てられたのだ」と語ったという。

今回の展覧会は、大きく三つのセクションに分かれていた。
正直、ヘビーな“戦争画”パートの後、〓章「再びパリへ」は流して見た所がある。
だが、後期の仕事も、紆余曲折に富んだ興味深い作品群である。

アメリカで藤田は、「カフェ」を描く。
今回の展覧会のポスターに使われている絵だ。
“乳白色の肌”が復活しているが、街角に向けられる婦人の視線はどこか虚ろだ。まるで華やかなりし日々の面影を追っているような…。

戦後10年の1955年、藤田は、フランスに帰化する。
そして藤田は、カトリック信者となり、洗礼を受ける。
洗礼名は、レオナルド・フジタ。
藤田は、日本に捨てられ、フランスも捨て、“神の子”として生きることを選んだ。
宗教画を精巧な描写力で描くことに没頭した。

この時期から、藤田は多くの子供の絵を描くようになる。藤田は生涯、我が子に恵まれなかった。
描かれた子供は、みな同じ顔をしている。
藤田の心に住む、フジタズ・エンジェル。
幻を追うそのイメージは、無時間的な観念の世界である。

レオナルド・フジタは、日本にもフランスにもさよならして、自らの天使舞う絵画の世界に生きた。

自ら設計した礼拝堂のフレスコ画を完成させ、藤田は生涯を閉じた。
晩年の生活では、浪曲のレコードをよく聞いていたという。

参考資料;近藤史人著『藤田嗣治「異邦人」の生涯』(講談社文庫)