
この前、何気にテレビをつけると、ある番組に出くわした。
あいにく終盤を迎えつつあったので詳しい内容はよく分からなかったのだが、どうやらカンボジアの地雷を撤去し続けている日本人の話らしい。
そのときインタビューを受けていたカンボジアの少女がとても印象的であった。
『地雷』。それはもちろん敵を欺き、殺すために埋められたとてつもなく卑怯で残忍極まりない罠であるため、どこにあるのかなど分からない。
そんなわけで、そこかしこに『警戒区域』がある。ロープなどを張って『立入禁止』みたいな格好にしてあるのだが、それがジャングルや広大な土地ならいざ知らず、生活区域、居住区域までにも存在している。
画面は地雷の被害を受け、かろうじて命はあるものの片足を失った人や、大きな傷跡を残した人たちを映し出す。
そんな中、一人の少女が『立入禁止』のロープを越え、スタスタと歩いてゆく。それを見つけた日本人スタッフたちが
「危ない!危ない!出ろ!出ろ!」と必死に叫んでいる。
それでも少女はニコニコと歩く。よどみなく、歩く。
だってその『警戒区域』は彼女の家の敷地内なのだから。
そこへ日本人の若い女性タレントだかレポーターだかが勢い余って少女に問いかける。
「地雷があるのは知ってる?」
少女は笑顔をカメラに向け、うなずく。
「踏んだら死んじゃうよ」
「・・・・」
「怖くないの?」
通訳を受けて、少女は
「コワクナイ」と笑顔のまま応える。
「なんで?踏んだら、死んじゃうんだよ・・・」
少女は言う、
「だって見えないんだもん」
そこで女性レポーターは涙を流し、言葉を失った。
私もバカみたいに涙を溜め、愕然としていた。
あぁ、そうだ。「見えない」もんな。そんな「見えない」ものに脅かされて自分の生活を制限されるわけにはいかねぇよな。と、まさに目からウロコである。
ここ日本も、カンボジアも、いや、世界中、ようは同じことなのだ。
『地雷』はどこにでもある。
公害による大気汚染、発ガン性にまみれた食物、ワケの分からない化学物質でコーティングされた日用品を身にまとい、日増しに異常性を高める凶悪犯罪、暴力、垂れ流されるゴシップ、偏見、差別。電車は脱線し、飛行機は整備不良、交通事故など日常茶飯事だ。
Co2は地球を歪め、自然災害はとどまることを知らない。
核の脅威、テロ、拉致。
それらに目を向けたとき、僕らは恐怖する。しかし、それらは予測不可能であって、呑気な僕らは日々の暮らしの中の雑用で手一杯だ。
そんな中、あらゆる恐怖は埋没し、見えなくなり『地雷』となる。
『地雷を踏んだらサヨウナラ』という映画がある。なんとなくサッパリしたタイトルではあるが、その内容はかなり壮絶である。
しかし、壮絶であろうが残酷であろうが悲壮であろうが衝撃であろうが、現実に「サヨウナラ」なのである。
きっとカンボジアの少女から言わせれば地雷も交通事故も同じようなレベルなのだろう。運が良いか悪いか、それが日常の生活なのだ。
怖くないはずはない。だからといって何もせずに生きてゆくことなど出来やしないのだ。
強い弱い、勝つ負ける、好き嫌い、そんなレベルの話ではない。生きるか死ぬか、だ。
死んだように生きている人間が多い中で、私はカンボジアの少女の笑顔に、
『真実の、生きる』を見た思いであった。
あいにく終盤を迎えつつあったので詳しい内容はよく分からなかったのだが、どうやらカンボジアの地雷を撤去し続けている日本人の話らしい。
そのときインタビューを受けていたカンボジアの少女がとても印象的であった。
『地雷』。それはもちろん敵を欺き、殺すために埋められたとてつもなく卑怯で残忍極まりない罠であるため、どこにあるのかなど分からない。
そんなわけで、そこかしこに『警戒区域』がある。ロープなどを張って『立入禁止』みたいな格好にしてあるのだが、それがジャングルや広大な土地ならいざ知らず、生活区域、居住区域までにも存在している。
画面は地雷の被害を受け、かろうじて命はあるものの片足を失った人や、大きな傷跡を残した人たちを映し出す。
そんな中、一人の少女が『立入禁止』のロープを越え、スタスタと歩いてゆく。それを見つけた日本人スタッフたちが
「危ない!危ない!出ろ!出ろ!」と必死に叫んでいる。
それでも少女はニコニコと歩く。よどみなく、歩く。
だってその『警戒区域』は彼女の家の敷地内なのだから。
そこへ日本人の若い女性タレントだかレポーターだかが勢い余って少女に問いかける。
「地雷があるのは知ってる?」
少女は笑顔をカメラに向け、うなずく。
「踏んだら死んじゃうよ」
「・・・・」
「怖くないの?」
通訳を受けて、少女は
「コワクナイ」と笑顔のまま応える。
「なんで?踏んだら、死んじゃうんだよ・・・」
少女は言う、
「だって見えないんだもん」
そこで女性レポーターは涙を流し、言葉を失った。
私もバカみたいに涙を溜め、愕然としていた。
あぁ、そうだ。「見えない」もんな。そんな「見えない」ものに脅かされて自分の生活を制限されるわけにはいかねぇよな。と、まさに目からウロコである。
ここ日本も、カンボジアも、いや、世界中、ようは同じことなのだ。
『地雷』はどこにでもある。
公害による大気汚染、発ガン性にまみれた食物、ワケの分からない化学物質でコーティングされた日用品を身にまとい、日増しに異常性を高める凶悪犯罪、暴力、垂れ流されるゴシップ、偏見、差別。電車は脱線し、飛行機は整備不良、交通事故など日常茶飯事だ。
Co2は地球を歪め、自然災害はとどまることを知らない。
核の脅威、テロ、拉致。
それらに目を向けたとき、僕らは恐怖する。しかし、それらは予測不可能であって、呑気な僕らは日々の暮らしの中の雑用で手一杯だ。
そんな中、あらゆる恐怖は埋没し、見えなくなり『地雷』となる。
『地雷を踏んだらサヨウナラ』という映画がある。なんとなくサッパリしたタイトルではあるが、その内容はかなり壮絶である。
しかし、壮絶であろうが残酷であろうが悲壮であろうが衝撃であろうが、現実に「サヨウナラ」なのである。
きっとカンボジアの少女から言わせれば地雷も交通事故も同じようなレベルなのだろう。運が良いか悪いか、それが日常の生活なのだ。
怖くないはずはない。だからといって何もせずに生きてゆくことなど出来やしないのだ。
強い弱い、勝つ負ける、好き嫌い、そんなレベルの話ではない。生きるか死ぬか、だ。
死んだように生きている人間が多い中で、私はカンボジアの少女の笑顔に、
『真実の、生きる』を見た思いであった。
どうぞ、よろしく!