仕事が深夜に及ぶので、いつも何気なく夜空を眺めてしまう。そんなとき、目を惹くのはやはり「月」だ。その日の体調、というか疲労の度合いなどもあるのだけれど、その存在に畏敬を抱くときもあれば、その妖しさに不穏を覚えるときもある。
たとえば満月。ふと見上げた夜空に、その満ち満ちた月光の猟奇的な神秘さなどを見つけたときは、血液が揺らぎ、身体はうち震える。
たとえば半月。その無垢なあどけなさに、平凡の中の潜在的な畏れを喚起させられる。
そして三日月。その冷徹な微笑にも似た姿を眺めるには、とりわけ覚悟を要してしまう。
だがいつも、こんな歪な感覚で月を眺めるわけではない。その神秘性に魅了されるときもあれば、月光を浴びて心和むひと時だって、ある。
このところの月は、無表情のように思える。その無表情はしかし、冷たいわけではなく、ただここに、いつものサイクルとして満ち欠けている……そんな感じを、受ける。
時間は速くもなく、遅くもなく、いつだって均一に流れている。その流れの中でどれだけのことができるか、どれほどのことができるのか。
少しずつでも、満ちてゆくこと。またそれが、ようやく一回りしたところで欠けだすようなことになっても、また一回り、もう一回り。
限界の先には、少なからずの緩みを見つけ、暮らしに折り合いを重ねてゆく。
「惰性」というほど落ちぶれているわけでもなく「一所懸命」というほど必死ではない。そこには当たり前の空気が流れ、世も知れず満ち欠けする月がある。
ふと、生きていることへの焦燥めいたものにとらわれそうになる。それはとてもあやふやな感覚で、今(現在)の世間の状況が、そうさせているのは明らかだ。そんなとき、中途半端に、満ちているのだか、欠けているのだか、わからないような曖昧な月が浮かんでいるのを見上げたら、ささやかな落ち着きを取り戻せた、ような気がした。
たとえば満月。ふと見上げた夜空に、その満ち満ちた月光の猟奇的な神秘さなどを見つけたときは、血液が揺らぎ、身体はうち震える。
たとえば半月。その無垢なあどけなさに、平凡の中の潜在的な畏れを喚起させられる。
そして三日月。その冷徹な微笑にも似た姿を眺めるには、とりわけ覚悟を要してしまう。
だがいつも、こんな歪な感覚で月を眺めるわけではない。その神秘性に魅了されるときもあれば、月光を浴びて心和むひと時だって、ある。
このところの月は、無表情のように思える。その無表情はしかし、冷たいわけではなく、ただここに、いつものサイクルとして満ち欠けている……そんな感じを、受ける。
時間は速くもなく、遅くもなく、いつだって均一に流れている。その流れの中でどれだけのことができるか、どれほどのことができるのか。
少しずつでも、満ちてゆくこと。またそれが、ようやく一回りしたところで欠けだすようなことになっても、また一回り、もう一回り。
限界の先には、少なからずの緩みを見つけ、暮らしに折り合いを重ねてゆく。
「惰性」というほど落ちぶれているわけでもなく「一所懸命」というほど必死ではない。そこには当たり前の空気が流れ、世も知れず満ち欠けする月がある。
ふと、生きていることへの焦燥めいたものにとらわれそうになる。それはとてもあやふやな感覚で、今(現在)の世間の状況が、そうさせているのは明らかだ。そんなとき、中途半端に、満ちているのだか、欠けているのだか、わからないような曖昧な月が浮かんでいるのを見上げたら、ささやかな落ち着きを取り戻せた、ような気がした。