先日、仕事の帰りに友人宅へ本を借りに行った際、「いいおっさんやなー」と友人は私を見るなりそう言い放った。
この場合の「いい」は「良い=良質な」や「好い=好ましい」などの意ではもちろんなくて「いい加減=程よい」の意であろう。
要するに、見るからに「おっさん」ということだ。
確かに、作業服を着込んで週末の疲れきった私は「いいおっさん」に見えてもやむを得ぬが、私よりも四つ上の先輩おっさんに「いいおっさん」呼ばわりされるのは何とも癪である。
しかしながら、そこであれこれ否定し様々な言い分を述べる気力も体力もなく、私は力なく「まぁな・・・」と言うに止めて、借りた本の礼を述べ、そそくさと辞去した。
だが、待て、もしや?こういう活力の無さが、おっさんをおっさんしからしめたる、要因なのではなかろうか?と?
だが、待て、しかし!ここで孤軍奮闘し、如何に私はおっさんではないかと言うことを熱烈に語ってみたところで、「そういうところが、おっさんだよなー」と鼻であしらわれるのがオチではあるまいか?
要するに「いいおっさん」の称号を与えられた者に、もはや為す術もなく、ならば「偏屈なおっさん」などと忌み嫌われるくらいなら、物分りのよい(フリをした)「良いおっさん」や「好いおっさん」になったほうが得策ではあるまいか?
うむ、きっと、そうであろう。
しかしながら、私はまだ、明らかに自分よりも「いいおっさん」たる者に「いいおっさん」呼ばわりされるのを潔しとしない。
それにしても、最近私の周りでは「いいおっさん」率が急増しているのは抗い難い事実であるとともに、認めなければいけない現実の一つ、なのである。
この場合の「いい」は「良い=良質な」や「好い=好ましい」などの意ではもちろんなくて「いい加減=程よい」の意であろう。
要するに、見るからに「おっさん」ということだ。
確かに、作業服を着込んで週末の疲れきった私は「いいおっさん」に見えてもやむを得ぬが、私よりも四つ上の先輩おっさんに「いいおっさん」呼ばわりされるのは何とも癪である。
しかしながら、そこであれこれ否定し様々な言い分を述べる気力も体力もなく、私は力なく「まぁな・・・」と言うに止めて、借りた本の礼を述べ、そそくさと辞去した。
だが、待て、もしや?こういう活力の無さが、おっさんをおっさんしからしめたる、要因なのではなかろうか?と?
だが、待て、しかし!ここで孤軍奮闘し、如何に私はおっさんではないかと言うことを熱烈に語ってみたところで、「そういうところが、おっさんだよなー」と鼻であしらわれるのがオチではあるまいか?
要するに「いいおっさん」の称号を与えられた者に、もはや為す術もなく、ならば「偏屈なおっさん」などと忌み嫌われるくらいなら、物分りのよい(フリをした)「良いおっさん」や「好いおっさん」になったほうが得策ではあるまいか?
うむ、きっと、そうであろう。
しかしながら、私はまだ、明らかに自分よりも「いいおっさん」たる者に「いいおっさん」呼ばわりされるのを潔しとしない。
それにしても、最近私の周りでは「いいおっさん」率が急増しているのは抗い難い事実であるとともに、認めなければいけない現実の一つ、なのである。
『オッサンオーラ』って加齢臭みたいで、なんかイヤだな(泣