百科事典の電子版を買った主要な動機は、当ブログで発表する種々の「成り立ち」シリーズの調査のため。もし私がプロの著述家で、そうした調査・発表を仕事としてしているのなら代価を必要経費に計上するところだが、単なる趣味だから計上できない(つうか、計上して相殺すべき収入がそもそもない)。趣味といったら聞こえはいいが、言い方を変えれば「道楽」である。
それが道楽だとしても、私が小学生なら、課外活動として先生に「よくできました」と言って華丸……は、あさイチのMCの一人。じゃなくて花丸を付けてもらったかもしれないが、小学生ではないから花丸はもらえない。
そこが苦悩の原因なのであった。区から認知度チェックリストみたいなものが送られてきて、「自分で買い物ができる」等々の項目を見て、あったりまえじゃん、馬鹿にすんない、と思いながら先を見ていくと、「空しいと思うことがある」という項目が出てきた。やばい、そう思うことがある。毎日、せっせと調べ物をして、それを書いて、ぼーっとしていることを理由にチコちゃんに怒られることはないが、その調べ物&発表作業は、仕事ではなく道楽だし、小学生の課外活動でもない。ってことは、社会にとって必要のないことである。と考えると空しさが募るのである。
だが、そうした考え方は誤りである。人生100年の時代、多くの人が、小学生ではなく仕事もしていない。だからと言って、そうした人々が皆、世をはかなんでご飯を食べないでいては日本国全体が悲壮感につつまれてしまって経済も停滞する。学校の課外活動でなくても仕事でなくても生活を楽しむことは、社会にとっても個人にとっても大事なことである。
仕事でないからと言って後ろめたい気持ちがするのは、私自身がモーレツサラリーマンを身近に見た昭和の人間だからであろう。汗水垂らして働くことは現在でも大いなる美徳であるが、汗水垂らして道楽に打ち込むのも美徳である。
例えば、百歳の人が短距離走の記録を作ったのを見て大いに感動するが、決して、その百歳ランナーは仕事で走ってはいないだろうし、ましてや小学生ではないだろう。彼or彼女が走るのは、言ってみれば道楽である。と言ったとしても、それは百歳で走ることの価値を下げることを意味するものでは全くなく、道楽の価値の爆上げを意味するのである。
と考えて、大いに、汗水垂らして道楽を極める覚悟を決めたワタクシである。つまり、今回の記事は、ベートーヴェンの「ハイリゲンシュタットの遺書」と同じく、苦悩から抜け出した後のがんばる宣言なのである(ベートーヴェンと違って私はそもそも悩んでないという噂もある)。
なお、私はモーレツサラリーマンを見たのであって、自分がそうだったとは決して言ってない。
冒頭に、私は「著述家」ではない、と書いたのは、最近、テレビで誰かの肩書きが「著述家」になっていて、珍しいな、と思ったから。普通は、「料理研究家」だとか「坂道研究家」のように具体的な紹介をすると思うのだが、ジャンルを明らかにしない「著述家」とはなんでもかんでも書く人のことを言うのかな?ジャンルにこだわらない点は私も同じだが、私がそう名乗れないのはプロでないから、すなわち、このブログによって一円でも稼ぐわけではないからである。だが、そのようにお金を稼ぐか否か、すなわち、プロかアマかで区別を設けることが世界一般というわけでもない。例えば、アメリカでは、「ウチのワイフはピアニスト」と言って亭主がえばってても、別に妻殿はプロの奏者ではなく、趣味で弾く程度であるというのはよく聞く話である。だったら、私もアメリカ人に自己紹介をするときは「著述家」と言っていいわけである(英語でなんて言うのか知れないけれど)。
そうだったとしても、税務申告の際はやはり対価を得てるかどうかが肝心のようだ。昔、ある作曲家さんが言っていたが、その方は、作曲料よりもタレントとしての収入が多かったので、職業欄に作曲家と書いてした税務申告のおり、係官との間で悶着があったそうである。
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