旅が好き・そして日々の時間で気の付く事を。

旅では人々の生きた来た跡を訪ねてみたい。
時間が出来たので、今までにしなかった事に手を出してみようと思う。

水戸天狗党の乱 跡を訪ねて

2022-05-19 20:30:06 | 
  茨城県水戸市 福井県南越前町今庄  福井県敦賀市
 天狗党の乱は1864年に水戸藩の尊王攘夷派武田耕雲斎を指導者として筑波山で挙兵した事によって起こされた乱。

水戸にある墓など
 回天館


 墓


 敦賀から移築された鯡倉



天狗党は挙兵後京都に向かうが追討軍に追われて下野・上野・信濃・美濃を通り、鯖江藩の大野から南越前町の今庄に至る。
    天狗党の行程地図(パンフレットからのコピー)


 旧京藤甚五郎屋敷(今庄 )




藤田小四郎(水戸天狗党の首領格)の書があった。 
 加賀藩永原甚七郎の書いた資料が展示されている。


今庄を出て木ノ芽峠を越えて越前新保至り慶喜に降伏、鰊倉の中に大人数が監禁され幹部達以外の者には手枷足枷をはめ、一日握飯一つと湯水一杯のみ。処罰は彦根藩により首謀者など352人が斬罪


福井県敦賀市の美しい気比の松原にある墓・鯡倉など
 耕雲斎の像




将軍慶喜
 天狗党の面々が尊皇の城主様と頼りにしていたが天狗党追悼軍の総大将になった。頼りにされていたにもかかわらず自分の国の者達に対する過酷な処罰に何もしなかった。
その後、鳥羽伏見の戦いでは負けた後部下をほったらかしてお船で江戸に逃げ帰った。
 いやはや


彦根のお侍
 桜田門外の変で城主を殺された恨みは、お命を守れなかった関係者やその家族にまで及んだとか。城主殺害の恨みを天狗党の者に向かい352人を殺した。
時は流れ薩長軍が東海道を東上するとき、古より関ヶ原などその地理的要に位置する彦根藩はご存じ赤備えで薩長軍に向かったと思いきや「キャイ~ン」と後に付いていったとか。
 手出しが出来ない者にはめっぽう強いお侍さん達。


骨のあるお侍さん達
 加賀藩の監軍、永原甚七郎は投降した天狗党員を「武士には武士の法がある」と勤王の志を持つ者として厚遇したが幕府の過酷な処遇の命に逆らい引き上げた。
 切り手を命令された越前藩は「我が藩には捕縛された者を切る武士はいない」と引き上げたとか。


天狗党降伏後、水戸藩では市川三左衛門ら諸生党が天狗党の家族らをことごとく処刑した。
維新後、武田耕雲斎の孫金次郎は水戸の諸生党の生き残りを皆殺しにした。
 「そして誰も居なくなった」




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