ここのところ、人間関係に少し疲れ気味だ。
中国人との人間関係は予想の範囲内の想定外の連続で、これはまあ、いい。
やはり上海くんだりまで来ている日本人との関係は難しい。
中国人の同僚がこう言う。
「日本で働いていた時、周囲の日本人はみんな本当に人格者だったのに、
上海に戻ってきてからこっちで会う日本人は、理由もなく偉そうで、
なんだか感じの悪い人たちばかりだ」と。
その「感じ悪い日本人」の中に、私が含まれているのかどうかは、
恐ろしいので敢えて聞かなかった。
社会の目がなくなったとたん、日本人も堕ちるということなんだろう。
「公共」の場で自分を律することができるのは、とても素晴らしいことだけれど、
その「公共」が違う概念になったときに、自分を律することができるかどうかは、
その人自身の問題だ。
むかしよく母から「相手の立場に立って物事を考えなさい」と言われた。
でも「相手の立場」じたいが全然違う価値観の中にあるのだったらどうする。
そもそも相手の立場に立つことなんてできないんじゃないか、など、
これもまた、植物状態で意思疎通ができない母と付き合う中で、
常に自問自答し、今でもぐるぐる考えてしまうネタだ。
しかし、やはり、そうした自問自答をしてきたおかげで、
ワケのわからないものに対する耐性が少しできたんだろうと思う。
むかしなら「こんなのイヤだ!」と思ったことでも、
比較的距離を保ったまま、ぬるい感じで、価値判断をとりあえず保留することができる。
いまは、上海に来たからと言って、これという結果を出さなくてもいいと思ってる。
そもそも、私なんかがそう簡単に結果が出せるほど、世の中は甘くないだろう。
ここは外国なんだし、共産主義で日本とは全然違う国なのだから。
そして、中国が好きだという人はよく「中国歴の長さ」を自慢する。
私はもう何年いるから、中国のエキスパートだ、というようなことを話す。
もちろん私は日本歴のほうが中国歴よりずっと長いけれど、
日本のことをどれだけ知っているかと言うと、
最近の政党は、冗談かと思うような名前ばかりで、もうよくわからない。
ここ最近のことは少し大目に見るとしても、
そもそも戦後の歴史なんて、ほとんどわかっていない。
中国人なんて、チベットで何が起きているかなんて知らないんだし。
だから、長さは1つの補助的な軸であって、最終的には、物事をどう見るかということ、
また、自分はある物事をどう見たいと思っているかを自覚できるか、なんだろうと思う。
そんなことを教えてくれるのは、私にとってはやはり仏教。
『傷ついた日本人へ』(ダライ・ラマ14世、新潮新書)
人の精神に対するアプローチとしては、いま世界で最高の叡智じゃないかと思う。
中国人との人間関係は予想の範囲内の想定外の連続で、これはまあ、いい。
やはり上海くんだりまで来ている日本人との関係は難しい。
中国人の同僚がこう言う。
「日本で働いていた時、周囲の日本人はみんな本当に人格者だったのに、
上海に戻ってきてからこっちで会う日本人は、理由もなく偉そうで、
なんだか感じの悪い人たちばかりだ」と。
その「感じ悪い日本人」の中に、私が含まれているのかどうかは、
恐ろしいので敢えて聞かなかった。
社会の目がなくなったとたん、日本人も堕ちるということなんだろう。
「公共」の場で自分を律することができるのは、とても素晴らしいことだけれど、
その「公共」が違う概念になったときに、自分を律することができるかどうかは、
その人自身の問題だ。
むかしよく母から「相手の立場に立って物事を考えなさい」と言われた。
でも「相手の立場」じたいが全然違う価値観の中にあるのだったらどうする。
そもそも相手の立場に立つことなんてできないんじゃないか、など、
これもまた、植物状態で意思疎通ができない母と付き合う中で、
常に自問自答し、今でもぐるぐる考えてしまうネタだ。
しかし、やはり、そうした自問自答をしてきたおかげで、
ワケのわからないものに対する耐性が少しできたんだろうと思う。
むかしなら「こんなのイヤだ!」と思ったことでも、
比較的距離を保ったまま、ぬるい感じで、価値判断をとりあえず保留することができる。
いまは、上海に来たからと言って、これという結果を出さなくてもいいと思ってる。
そもそも、私なんかがそう簡単に結果が出せるほど、世の中は甘くないだろう。
ここは外国なんだし、共産主義で日本とは全然違う国なのだから。
そして、中国が好きだという人はよく「中国歴の長さ」を自慢する。
私はもう何年いるから、中国のエキスパートだ、というようなことを話す。
もちろん私は日本歴のほうが中国歴よりずっと長いけれど、
日本のことをどれだけ知っているかと言うと、
最近の政党は、冗談かと思うような名前ばかりで、もうよくわからない。
ここ最近のことは少し大目に見るとしても、
そもそも戦後の歴史なんて、ほとんどわかっていない。
中国人なんて、チベットで何が起きているかなんて知らないんだし。
だから、長さは1つの補助的な軸であって、最終的には、物事をどう見るかということ、
また、自分はある物事をどう見たいと思っているかを自覚できるか、なんだろうと思う。
そんなことを教えてくれるのは、私にとってはやはり仏教。
『傷ついた日本人へ』(ダライ・ラマ14世、新潮新書)
人の精神に対するアプローチとしては、いま世界で最高の叡智じゃないかと思う。