ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

長さ

2012-11-27 23:57:04 | Weblog
ここのところ、人間関係に少し疲れ気味だ。
中国人との人間関係は予想の範囲内の想定外の連続で、これはまあ、いい。
やはり上海くんだりまで来ている日本人との関係は難しい。

中国人の同僚がこう言う。
「日本で働いていた時、周囲の日本人はみんな本当に人格者だったのに、
 上海に戻ってきてからこっちで会う日本人は、理由もなく偉そうで、
 なんだか感じの悪い人たちばかりだ」と。

その「感じ悪い日本人」の中に、私が含まれているのかどうかは、
恐ろしいので敢えて聞かなかった。

社会の目がなくなったとたん、日本人も堕ちるということなんだろう。
「公共」の場で自分を律することができるのは、とても素晴らしいことだけれど、
その「公共」が違う概念になったときに、自分を律することができるかどうかは、
その人自身の問題だ。

むかしよく母から「相手の立場に立って物事を考えなさい」と言われた。
でも「相手の立場」じたいが全然違う価値観の中にあるのだったらどうする。
そもそも相手の立場に立つことなんてできないんじゃないか、など、
これもまた、植物状態で意思疎通ができない母と付き合う中で、
常に自問自答し、今でもぐるぐる考えてしまうネタだ。

しかし、やはり、そうした自問自答をしてきたおかげで、
ワケのわからないものに対する耐性が少しできたんだろうと思う。
むかしなら「こんなのイヤだ!」と思ったことでも、
比較的距離を保ったまま、ぬるい感じで、価値判断をとりあえず保留することができる。

いまは、上海に来たからと言って、これという結果を出さなくてもいいと思ってる。
そもそも、私なんかがそう簡単に結果が出せるほど、世の中は甘くないだろう。
ここは外国なんだし、共産主義で日本とは全然違う国なのだから。

そして、中国が好きだという人はよく「中国歴の長さ」を自慢する。
私はもう何年いるから、中国のエキスパートだ、というようなことを話す。

もちろん私は日本歴のほうが中国歴よりずっと長いけれど、
日本のことをどれだけ知っているかと言うと、
最近の政党は、冗談かと思うような名前ばかりで、もうよくわからない。
ここ最近のことは少し大目に見るとしても、
そもそも戦後の歴史なんて、ほとんどわかっていない。
中国人なんて、チベットで何が起きているかなんて知らないんだし。

だから、長さは1つの補助的な軸であって、最終的には、物事をどう見るかということ、
また、自分はある物事をどう見たいと思っているかを自覚できるか、なんだろうと思う。

そんなことを教えてくれるのは、私にとってはやはり仏教。
『傷ついた日本人へ』(ダライ・ラマ14世、新潮新書)

人の精神に対するアプローチとしては、いま世界で最高の叡智じゃないかと思う。