ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

トレードセンター・咲洲庁舎、今里妙法寺・熊野大神宮

2014年12月10日 23時13分06秒 | 訪問地周辺散策

大阪2日目は今里にある施設の訪問が仕事です。午後からなので、午前中大阪のベイエリアを散策してから今里に向かいました。コスモスクエア駅で降りて大阪港を見てからコスモタワー(大阪府・咲洲庁舎)方面に向かいました。途中は枯れすすきが生えているような未開発の所が残り、タワーが寂しく立っているという感じでした。大阪では超高層ビル建てそこを起点に再開発をもくろんでいましたが、いずれも失敗しています。コスモタワーも失敗を隠すために府庁舎を無理やり入れたようです。海に面してるトレードセンターオズ棟の前も前回はクリスマスの装飾がありましたが、今回はまだ出ていませんでした。ますます寂れているようです。外国の観光客の方が数名いらっしゃいました。トレードセンター前駅からニュートラムに乗って終点の住之江公園まで、地下鉄四つ橋線に乗って難波にでて千日前線で今里に向かいました。

今里も3回目ですがどこも散策したことがなく、今回初めて近くの熊野大神宮を散策しました。旧大今里村の氏神さまだそうです。由緒書きによると、創立年代は1400年以上前になり詳らかではないとのことですが、「用明天皇2年、厩戸皇子が四天王寺を浪速玉造の岸に創立せられたとき、拾弐坊の伽藍を建立せられ、当社社務を司らしめられました」とあり、もとは熊野権現と称していましたが、明治8年権現号を廃し、熊野大神宮と改称した旨が記されているそうです。 境内には厳島弁財天や琴平神社も祀られています。

隣は妙法寺です。

妙法寺は聖徳太子の創建と伝えられ、近世国学の祖と言われる契沖(けいちゅう)が、延宝7年(1679)から元禄3年(1690)まで住職をし、また修学の道場としても有名で、現在大阪府顕彰史跡に指定されています。昭和24年に妙法寺境内は、僧契沖遺跡として大阪府顕彰史跡に指定されています。近世国学の祖といわれる契沖は、延宝7年(1679)から元禄3年(1690)までの11年間、この妙法寺住職をし、国学の勉強に尽力した。契沖の父は尼カ崎領主青山大蔵小輔幸真に250石で仕えた下川善兵衛元金でその第三子として寛永17年(1640)に尼ヶ崎に生まれ、11才のときに出家して仏門に入り、その後高野山で修業にはげみ、妙法寺住職となってから本格的に国学研究の学問に専念し、徳川光圀公の委嘱により、有名な「万葉代匠記」やその他多くの著作を完成させました。。宝歴(1751)頃の妙法寺は一時衰退していましたが、泊中法典和尚が住職し大黒天信仰を鼓吹してより時運隆盛になり「南にては今宮のゑびす、東にては今里の大黒」と喧伝され、庶民の群参で賑わったと伝えられています。大黒天です。

大きなクスノキがありました。薬師如来この近くの道が奈良街道だったようです。

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