ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

築地本願寺(西本願寺)

2017年03月19日 12時29分47秒 | 江戸名所図会めぐり

食の安全のつどいの世話人会で中央区に行ってきました。築地本願寺のところにあるので、江戸名所図会めぐりで散策してみました。

本願寺はあいにく境内は工事中でした。でも観光客がたくさん来ていました。以前2014年8月に来ているので、その時の写真を使用します。このときは真夏の平日ということで、あまり参拝客も来てませんでした。江戸名所図会です。

手前が大川(隅田川)になるので、正面は晴海通りのところになっていたようです。

晴海通りのところに門跡がありました。向かい側は築地市場の場外になります。観光地化されて土曜日たくさん見物客が集まっていました。

今は新大橋通りの所が正面になっています。

本堂

★ランドマーク築地本願寺:築地本願寺は江戸時代の1617年に、西本願寺の別院として浅草御門南の横山町(現在の日本橋横山町、東日本橋)に建立。「江戸海岸御坊」「浜町御坊」と呼ばれていた。しかし明暦の大火(振袖火事)により本堂を焼失。その後、江戸幕府による区画整理のため旧地への再建が許されず、その代替地として八丁堀沖の海上が下付された。そこで佃島の門徒が中心となり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き(この埋め立て工事が地名築地の由来)、1679年に再建。「築地御坊」と呼ばれるようになった。なお、このときの本堂は西南(現在の築地市場)を向いて建てられ、場外市場のあたりが門前町となっていた。

1923年9月1日の関東大震災では、地震による倒壊は免れたが、すぐ後に起こった火災により再び伽藍を焼失。また、58か寺の寺中子院は、被災後の区画整理により各地へ移転。

現在の本堂は1934年の竣工。古代インド様式をモチーフとしたこの建物は、東京帝国大学工学部名誉教授・伊東忠太による設計である。当時の宗教施設としては珍しい鉄筋コンクリート造で、松井組(現松井建設)の施工により建築された。大理石彫刻がふんだんに用いられ、そのスタイルは現在においても斬新かつ荘厳で、築地の街の代表的な顔である。 浄土真宗本願寺派の新体制移行(2012年4月1日付)に伴い、正式名が従前の「本願寺築地別院」から「築地本願寺」になった。これにより、築地本願寺は全国唯一の直轄寺院となる。

本尊は聖徳太子手彫と伝承される阿弥陀如来立像。

今は工事中で入れませんが、境内右手の奥に新大橋よりにこんな石碑がありました。

正門から左に行ったところには親鸞聖人の像や陸上交通殉難者追悼の碑

東京都指定文化財 昭和13年(1938)10月指定

 間新六光風(はざましんろくみつかぜ)(1681~1703)は、播磨国(兵庫県)赤穂藩主浅野長矩(ながのり)の家臣、間喜兵衛光延の次男として生れました。元禄15年(1702年)父および兄の十次郎光興とともに、主君、浅野長矩の殿中刃傷(でんちゅうにんじょう)事件の仇討ちに加わり、翌元禄16年(1703年)2月に麻布の毛利邸で切腹し、姉聟(あねむこ)の中堂又助が当寺に葬りました。他の義士と共に、高輪泉岳寺(港区)にも墓石がありますが、新六のみが当寺に葬られたのは、当寺の檀徒であったのか、あるいは、生前の特志によるものであろうといわれています。

 本願寺築地別院(築地本願寺)には、新六が吉良邸討ち入りののち、泉岳寺に引き揚げる途中、自身の供養を願い、槍に書状と金子を結びつけて、当寺内に投げ入れたという伝承が伝えられています。

 この供養塔は、当初のものが、天保5年(1834年)火災にあって焼失したため、羽佐間宗玄が再建したものです。

 平成15年(2003)3月 中央区教育委員会

浅野家はこの近く聖路加病院のところにあったようです。

東京都指定文化財 昭和4年(1929)5月 酒井抱一(さかいほういつ)(1762~1828)は播磨国(兵庫県)姫路藩主酒井忠仰(ただもち)の次男として江戸に生まれ育ちました。寛政9年(1797年)、江戸下向中の京都西本願寺文如(もんにょ)上人の弟子として出家し、等覚院文詮暉真と称し、抱一と号しました。

 画筆に秀で、茶道・俳諧・狂歌等にも長じ、文人墨客とも交わりを深めた風雅の人でした。画技は狩野・土佐・円山等の諸派や浮世絵に通じていました。尾形光琳の画風に傾倒し、文化12年(1815)光琳の100回忌を営み、『光琳百図』などを出版しました。また、その画技をおさめて、『四季花鳥図屏風』『夏秋草図屏風』などを残しています。

 門人には鈴木其一(きいつ)、池田孤村(こそん)、田中抱二(ほうじ)などがおり、抱一は京都の華麗な装飾画法である琳派(りんぱ)を江戸の地にふさわしい粋で瀟洒(しょうしゃ)な江戸琳派として完成させました。文政11年(1828年)11月根岸(台東区)の雨華庵で没し、翌月築地本願寺に葬られました。

 平成10年(1998)3月 中央区教育委員会

何て読むのかわかりませんでしたが。

東京都指定旧跡 大正13年(1924)1月指定

 土生玄碩(はぶげんせき)は、江戸時代後期の眼科医で宝暦12年(1762年)安芸国吉田(広島県高田郡吉田町)で生れた。名を義寿といい、桑翁(そうおう)と号した。文化7年(1810年)奥医師を拝命し、文化13年法眼に叙せられ、文政5年(1822年)には12代将軍徳川家慶(いえよし)の眼疾を治療した。文政12年シーボルトから眼病治療法を教授された謝礼に、将軍拝領の紋服を贈ったことで、シーボルト事件に連座、改易となり、江戸を追放された。嘉永元年(1848年)8月17日、87歳で死去し、土生家の菩提寺である築地本願寺中眞龍寺に葬られたが、昭和3年(1928年)12月区画整理のため改葬された。墓標には『桑翁土生君之墓』とある。

 著書には、『銀海波抄(ぎんかいはしょう)』『師談録(しだんろく)』『獺祭録(だっさいろく)』などがある。

 平成11年(1999)3月31日 東京都教育委員会

いろいろな石碑がありました。

コメント
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