諏訪神社と厩橋の途中に榧寺があります。何度か来ていますがなかなかブログにアップできませんでした。今回江戸名所図会めぐりとしてまとめてみました。
江戸名所図会より
正覚寺 一は榧寺(かやでら)ともいえり と書いてあります。
★ランドマーク榧寺:榧寺は、天正年間(1575年ごろ)から草庵として創始、慶長4年(1599)に増上寺中興開山の観智国師法名貞蓮社源誉上人が池中山盈満院正覚寺として開山したといいます。観智国師は、榧寺以外にも、東小松川源法寺、行徳源心寺などを開山した高僧です。境内に鬱蒼と茂っていた榧の木が、寺宝を火災から護っていたことから、江戸時代から榧寺と称されていました。昭和27年に末寺の山谷町宗念寺と合併、榧寺と改称したといいます。
石川雅望墓(東京都指定文化財):石川雅望は江戸時代著名な俳歌師、六樹園を称し、字を子柏といった。五老斎、逆旅主人または蛾術斎と号した。また石川五郎兵衛といい狂歌を蜀山人に学び狂名を宿屋飯盛といった。小伝馬町3丁目の旅館糟屋七兵衛(画名を石川豊信)の子として生れ、青年期には行状放逸で、父の死に逢って学問を好むようになったという。しかし強訴を援助したという嫌疑をうけ、しばしば法廷によばれ、ついに江戸を追われて多摩郡府中に住むようになった。彼はここで和歌を学び、晩年狂歌をよくした。著書には「源注余滴」「雅言集覧」などがあり、戯者小説類も数種ある。文政13年(1830)閏3月24日歿。年78。(東京都教育委員会)
お初地蔵縁起:大正11年(1922)7月2日、山本春吉の五女初(当時10歳)は、深川の松村関蔵宅にて養母の兼崎まきによって折檻を受け死亡。松村関蔵・兼崎まき夫婦は、それ以前にも、度々初を折檻し、27回にも及ぶ警察の説諭・指導を受けていた。
お初殺しの両名に対する傷害致死死体遺棄事件に関する初公判は、大正11年(1922)11月22日に開かれ、虐待の非情なまでの実態が明かされる。
お初の死を哀れんだ榧寺21世諦我上人が、供養のために「お初地蔵」建立し、遺骨が納められた。この事件は、継子(ままこ)いじめの芝居に仕組まれ、映画にも作られて、当時の庶民大衆の涙をさそった。終わりの場面には、お初の霊がこの世に現れ、鬼夫婦を苦しめるのがお決まりであったという。(お寺さんのHPより)http://www.kayanoki.com/kayadera.html
飴なめ地蔵
厄除け地蔵〔高村光雲作〕
浄瑠璃〔女義太夫〕の初代・竹本綾之助の碑
古地図でも正覚寺のところに(榧寺と云)と書かれています。「御厩川岸之渡」は錦絵に描かれています。
広重 名所江戸百景 御厩河岸 より
広重