ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

諏訪明神社(台東区)、御厩河岸渡(厩橋)江戸名所図会めぐり

2017年03月21日 22時34分44秒 | 江戸名所図会めぐり

東京スカイツリーの周りを一回りしながら周辺を撮ってきました。

どこかに江戸名所図会に出てくる場所があれば思って回ると最後になって台東区駒形にある諏訪明神社(諏訪神社)と厩橋のところの御厩河岸渡に行き着きました。

★ランドマーク諏訪明神社:諏訪神社(駒形)の創建年代は不詳ながら、後冷泉天皇の御代(1045-1068)とも、承久の乱(1221)の後とも伝えられるといいます。江戸時代には当地周辺の地名諏訪町の由来ともなり、明治維新後には村社に列格していました。

境内掲示より:五由緒沿革史

当社の創祀は定かなことを知る事は出来ませんが、口碑に依りますと「後冷泉天皇の御世である」と云われ、又一説には「承久の乱(1221)の後信濃国諏訪郡小日村の神主が諏訪大社の御分霊を当地に奉斎したのに始まる」と云われております。
諏訪信仰が関東に広まるのは、鎌倉時代中頃で当時諏訪大社は鎌倉幕府より箱根権現や伊豆山権現或いは三島大社と共に特別の尊崇を受けていたのです。それは「諏訪大社の大祝家が源頼朝の旗上げに最初から協力し祈祷の効を積んだからである」と云われています。したがって頼朝も諏訪大社を「武家守護之神」(吾妻鏡)として崇敬しています。又後白河法皇の「染塵秘抄」にも「関より東の王神として鹿島大社、香取大社と並んで三番目に諏訪大社が挙げられています」。その後時の執権となった北条氏は信濃国の守護職となり、諏訪郡を得宗領とし、諏訪大社の神主を得宗被官としたのです。こうした北条氏の支援によって諏訪大社の御分社が数多く関東に広まっていったものと考えられています。更に執権北条氏は支配する所領地に諏訪大社の御分社を奉斎すると共に得宗被官である諏訪氏の神主を招き神事祭事を執り行っていったと伝えられています。
当社は諏訪大社と同じ諏訪梶の御神紋を使用し天正年間以前には神主が数代にわたって奉仕して来たと社史に見えかつては諏訪大社最大の祭である御射山祭と関連する八剣の祭(風祭り神事)が行われていたと云われていますが定かではありません。
当社の別当寺は浅草寺の十二衆徒の一院であった修善院で「江戸時代は別当として奉仕して来た」と「浅草寺史」に記され当社に関する史料が「修善院呈書」にわずかながら残されています。
当社の所在地は「御府内備考」に「諏訪神社が鎮座してあったので諏訪丁とした」と記され江戸切り絵図寛文十一年板(版)の浅草絵図に「スワ大明神」と著されています。そして「丙訂江戸鹿子」には「近年度その回禄により社頭は形の如くなれども神徳は社の捐凶によらず唯霊験の灼をもって崇め祀る」と見えます。

江戸名所図会、下が諏訪明神社です。表面鳥居です。境内は狭くて狛犬も拝殿のところにおいてあります。ここから御厩河岸渡今の厩橋に向かいました。

江戸名所図会や広重の錦絵「名所江戸百景御厩河岸 」などにも描かれています。

 ★ランドマーク御厩河岸渡:現在の厩橋付近にあった。川岸に江戸幕府の「浅草御米蔵」があり、その北側に付随施設の幕府の馬小屋(厩)があったのでこの名がついた。元禄3年(1690年)に渡しとして定められ、渡し船8艘、船頭14人、番人が4人がいたという記録が残る。浅草寺界隈への入口にあたり、本所からも船で多くの人々が訪れた。渡賃は1人2文で武士は無料。明治7(1874)年、少し下流に厩橋(うまやばし)が架けられて、渡しは廃止された 。歌川広重の錦絵「浅草川首尾の松御厩河岸」にも描かれている。

広重:名所江戸百景浅草川首尾の松御厩河岸

厩橋の所から吾妻橋や東京スカイツリーを見てます。

渡しの下流に厩橋ができたので。渡しが廃止になったとあるので、今釣船が係留してあるあたりに渡し場があったようです。対岸は墨田区になります。下流側、下流に見える橋は蔵前橋になります。

こちらは墨田区側から

こののところに厩橋地蔵尊があります。東京大空襲で多数の人が川に飛び込んで亡くなっています。この日はお彼岸で花が供えてありました。

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