東京タワーのところにある会社に二か月に2日伺っています。6日は天候がよかったので地下鉄大門駅からのコースにしました。増上寺の表門のところにこんな案内があったので、江戸名所図会に載っている芝大神宮を急遽散策してみました。
古地図では表門のななめ後ろになっていす。
角には別のビルがあり、少し離れたところに入口の碑があったので、ここを入っていきました。
★准勅祭神社:勅祭社(ちょくさいしゃ)とは、祭祀に際して天皇により勅使が遣わされる(これを勅祭という)神社のことです。
明治3年に東京とその附近の12社を准勅祭社と定めましたが、東京の准勅祭社は、1975年(昭和50年)、昭和天皇即位50年の奉祝事業として関係神社が協議し、観光的な要素を濃くした東京十社としました。
正面の鳥居です。
江戸時代の錦絵には案内版にあった広重の絵がありました。 江戸自慢三十六興 芝神明[生が市]です。
こんな碑がありました。
★生姜塚:神社創建の時代、周辺には生姜畑が繁茂していたため、これを神前に供えたといい、その撤下を食すと風邪に罹りにくくなるとの評判が生じ、以来、例祭期間中に生姜を授与しているとのことです。
江戸名所図会より キャプション 世に芝の神明といふ。
江戸名所図会では市が立っている様子が描かれています。
広重江戸高名会亭尽 芝神明社内 です。
広重 江戸百景余興 芝神明増上寺
奥が増上寺の山門で右手の拝殿が芝明神でしょうか。
★ランドマーク芝大神宮:芝大神宮は、平安時代中頃の寛弘2年(1005)に伊勢の内外両宮の御分霊をまつり飯倉に創建、源頼朝が飯倉に御厨を寄進したということだそうです。江戸における古社で、飯倉神明とも称されていたといい、天正19年(1591)徳川家康より社領5石の朱印状を拝領したそうです。慶長年間に飯倉から当地へ移転、明治時代に入ってからは准勅祭社・府社に列格、明治5年芝大神宮と改称したとのことです。
★芝大神宮の文化財:社伝によれば平安時代の中頃(1005)に伊勢の内外両宮の御分霊をまつり鎮座されたといわれる区内有数の古社です。
毎年九月中旬には「だらだら祭」とよばれる祭礼がおこなわれ、江戸時代より現在まで生姜、甘酒などが境内で売られていることでも地元とのつながりが深いものです。
所蔵する文化財として、絵画では江戸末期の建部巣兆の箱根詣図(紙本墨画淡彩)などがあり、古文書では建武四年(1337)正月七日の足利直義御教書(勝利の祈祷を依頼したもの)、天正十六年七月二十四日の吉良氏朱印状があります。
★貯金祭(10月17日)近隣地に現在のりそな銀行(旧あさひ銀行・旧協和銀行)につながる不動貯金銀行を設立し、貯金王と称された牧野元次郎(1874年-1942年)の偉業を称え、昭和32年(1957年)、当時の関係者により境内に貯金塚(碑文は、武者小路実篤筆)が建立され、以後、毎年、貯蓄・貯金の加護祈請を執行しています。
拝殿は急な階段の上にあり、杖の人にはきつい坂です。
拝殿
こちらは力石です。
★港区指定文化財の力石:力石は重い石を持ち上げて「力競べ」や「曲持ち」を行った際に使用した石です。特に、江戸時代後期の文化・文政期には、職業的な力持ち力士による興行が行われるようになったようです。
芝大神宮の力石は、「五十貫余」の切付とともに、「川口町 金杉藤吉」の名前がある。これは、明治時代に活躍した有名な力持ち力士のひとり、芝金杉川口町の山口藤吉(慶應三年生)、通称「金杉の藤吉」のことで、芝大神宮で力持ちの興行が行われた時、金杉の藤吉がこの石を片手で差し上げたと伝えられています。
港区内には、全部で十四点の力石が確認されていますが、こうした力持ち力士の伝承がともなっているのはこの芝大神宮の力石のみで、都市の力石の民俗を知る資料として貴重なものとなっています。
手水舎です。
カエデが色付き始めていました。
東京10社めぐりの看板がありました。これで七つ目です。
銅灯籠は大正5年(1916年)となっています。