ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

寛永寺・清水観音堂(台東区上野)江戸名所図会めぐり

2017年11月12日 23時45分38秒 | 江戸名所図会めぐり

上野不忍池の水上音楽堂であった「ともしび大うたごえ喫茶」に行く途中で上野公園を散策しました。上野の山の紅葉と清水観音堂が目的でした。上野駅の公園口から東京文化会館の裏を抜けて動物園方面に向かって歩く途中です。TOKYO数寄フェス』が開催されていました。

右手のところに野口英雄像がありました。

これは何かわかりませんでした。目的の清水観音堂と関係の深いものでした。

これは2017年東京藝術大学の学園祭である藝祭で展示された巨大な御輿だそうです。

清水堂に向かうので、昔使った野球場のところをに行ってみました。右が文花会館です。

 

正岡子規記念球場になっていました。

小高い丘がありました。

すり鉢山古墳のようです。

階段を昇って反対側に降りました。こんな塔がありました。

★ランドマーク時忘れじの塔:は「東京大空襲」の犠牲者を悼む慰霊碑です。

落語家で、故林家三平さん夫人の海老名香葉子さんらにより建てられました。

碑文には

時忘れじの塔

関東大震災(大正十二年)東京大空襲(昭和二十年)東京にも、現在からは想像もできない悲しい歴史があります。
今、緑美しい上野の山を行き交う人々に、そのような出来事を思い起こしてもらうとともに、平和な時代へと時をつなげる心の目印として、この時計台を寄贈しました。

建立、寄贈 初代林家三平妻 海老名香葉子
建立有志一同

いよいよ清水観音堂です。ここの石段を登りました。拝殿です。

ここから不忍池を見ています。

反対側に降りて

★ランドマーク清水観音堂:清水観音堂は、寛永8(1631)年に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立されました。
天海大僧正は寛永2(1625)年に、二代将軍徳川秀忠公から寄進された上野の山に、平安京と比叡山の関係にならって「東叡山寛永寺」を開きました。これは、比叡山が京都御所の鬼門(艮=東北)を守るという思想をそのまま江戸に導入することを意味し、江戸城の鬼門の守りを意図したのです。そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立しましたが、清水観音堂は京都の清水寺(きよみずでら)を見立てたお堂です。
清水観音堂は、京都の清水寺の義乗院春海上人から、同寺安置の千手観世音菩薩像が天海大僧正に奉納されたことにちなみ、清水寺と同じ舞台作りで、初めは上野公園内の「擂鉢(すりばち)山」に建てられました。しかし元禄初期、今の噴水広場の地に、寛永寺総本堂の根本中堂建設が決まると、その工事に伴って元禄7(1694)年9月に現在地に移築されました。上野の山に現存する、創建年時の明確な最古の建造物です。 

清水観音堂は錦絵に多く描かれています。

広重 名所江戸百景 上野清水堂不忍ノ池

広重 東都上野花見之図・清水堂

広重 東都名所 上野清水堂

 錦絵の左手の建物は吉祥閣です。江戸名所図会では右下に文殊楼と描かれています。これがその文殊楼を模したものだそうです。

 古地図(錦絵)と江戸名所図会の名称が異なっているように思えますが。

右手の桜は

「秋色桜(しゅうしきざくら)」といい、近くの井戸とともに江戸時代から知られる桜です。
江戸時代に、日本橋の菓子屋のまだ13歳の娘が、花見の折に「井戸はたの 桜あぶなし 酒の酔い」と一句したためて桜の枝に吊して帰ったところ、当時の寛永寺住職であった輪王寺宮のお褒めにあずかったそうです。その娘は成長すると宝井其角門下の俳人となり、菊后亭秋色と号しました。それを記念して「秋色桜」と名付けられた桜は、現在およそ九代目にあたると言われています。江戸名所図会より

ここに清水観音堂と秋色桜が描かれています。絵の階段は清水坂です。

不忍池に降りる階段になっています。

坂の途中にある石燈籠は天明6年(1786年)と記銘してあります。下の通りかた見上げています。

本堂の前にある月の松は

広重 名所江戸百景 上野山内月のまつ  です。

 

コメント (1)
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