台東区側の隅田公園に紫陽花を見にいったついでに周辺を散策しました。いつもと違う寿方面に行って見ました。
吾妻橋から駒形どじょうのところから中に入りました。鳥居
★ランドマーク黒船稲荷神社:当社はもと「黒船三社稲荷社」と呼ばれ、天慶三年(九四〇)に、平貞盛が藤原秀郷と協力して将門の本拠を攻めたのち、黒船稲荷大明神を祀ったのがはじまりと伝えられている。中世には一時衰弱したが、江戸時代のはじめ寛永年間(一六二四-四四)のある秋に、釈妙圓尼が再興した。享保十七年(一七三二)には、浅草通り黒船町河岸の南西に祀ってあったが、同年三月の大火で類焼し、その後、替地を賜わり現在に至っている。(東京都神社名鑑より)「猫の足あと」さんのHPから狛犬
拝殿
寛政7年(1795年)の銘記の水盤
由緒ある割にはこじんまりとしていました。
次に出会ったのは長瀧山本法寺でした。奥に見えた柏葉アジサイに惹かれて入ってみました。山門です。熊谷稲荷と書かれています。
★ランドマーク本法寺:長瀧山 本法寺は東京都台東区寿町に在所する千葉松戸市小西法縁の寺統で、日蓮宗の歴史のあるお寺です。発祥地は天正19年(西暦1591年)太田道潅が築城した、江戸城西の丸があった紅葉山の丘陵に創建しました。明暦2年(西暦1657)江戸振袖火事で寺を焼失の後、高原平兵衛屋敷(通称拝領町屋敷)現在地に移りました。白狐を祀った熊谷稲荷、吉見稲荷、はなし塚、お伽丸柳一碑、筆塚、山谷なかま塚など、由来の多いお寺です。(お寺さんのHPより)
★熊谷稲荷:江戸中期の享保年間の頃雷門の浅草寺境内にあった熊谷稲荷を熊谷安左衛門の菩提寺である当本法寺に勧請した。この熊谷稲荷は江戸時代から霊験あらたかな稲荷として信者も多く江戸者に参詣多しと書かれているように世に名高い稲荷である。 稲荷を祀った狐にもさまざまな種類がありその中でも人間に福徳をわかつ狐として白狐だけが稲荷大明神の御本尊にえらばれる資格があると云われている。
白狐は財物に恵まれることと人生の幸福を授かると語り継がれているが熊谷稲荷は白狐を祀った稲荷で江戸浅草の本法寺と東北の弘前の津軽藩公が祀った二箇所しかないきわめて珍しい稲荷で江戸時代から霊験あらたかなお守札をだしている稲荷として世に知られている。(本法寺掲示より)。
熊谷安左衛門の歌碑
熊谷稲荷のお百度石
こちらは吉見稲荷です。
★吉見稲荷:この吉見稲荷は、当寺に浅草寺から熊谷大明神を勧請する前からあった稲荷で、いまから600年前の高原平兵衛の拝領町屋敷のあった頃から現存していたことがわかっています。屋敷神であった吉見稲荷が世に知れわたるようになったのは、いうまでもなく江戸時代から評判の高い熊谷稲荷が当寺にあり同じ境内にあったことから、吉見稲荷にも参拝し信仰する人が多くなったと思われます。
はなし塚
★はなし塚この塚が建立された昭和16年10月、当時国は太平洋戦争へと向かう戦時下にあり、各種芸能団体は、演題種目について自粛を強いられていた。落語界では、演題を甲乙丙丁の四種に分類し、丁種には時局にあわないものとして花柳界、酒、妾に関する囃、廓囃等五十三種を選び、禁演落語として発表、自粛の姿勢を示した。この中には江戸文芸の名作といわれた「明烏」「五人廻し」「木乃伊取」等を含み、高座から聴けなくなった。 「はなし塚」は、これら名作と落語界先輩の霊を弔うため、当時の講談落語協会、小咄を作る会、落語講談家一堂、落語定席席主が建立したもので、塚には禁演となった落語の台本等が納められた。
戦後の昭和21年9月、塚の前で禁演落語復活祭が行われ、それまで納められていたものに替えて、戦時中の台本などが納められた。(台東区教育委員会)
筆塚
★筆塚:本法寺の境内に筆塚を建立したのは田中千代先生だそうです。田中千代先生は昭和52年3月6日 年来の悲願であった毛筆精霊の功徳報恩のため、菩提寺である浅草本法寺の境内に筆塚を建立奉納されました。(お寺さんのHPより)
山谷なかま塚:昭和50年の冬建立、昭和51年1月23日、山谷無縁物故者追悼会が営なまれたとおうことだそうです。 詳しくはこちらからhttps://honpouji.jimdo.com/山谷なかま塚/
お伽九柳一の碑:お伽九柳一は、芸名を二つもっていて、皿廻しの曲芸や記憶術を高座でやるときは一柳斎柳一と云い、一風変わった芸を身につけた芸人として、明治から大正の年代にかけて活躍した人だそうです。詳しくはこちらからhttps://honpouji.jimdo.com/お伽丸柳一の碑/
帰りがけに山門
金龍寺がありました。
★ランドマーク金龍寺:金龍寺は、徳川家康の長女奥平侯信昌之室盛徳夫人が開基となり、南伝宗涌禅師を開山に迎えて、慶長16年八丁堀に創建、寛永12年当地へ移転したそうです。東京都指定旧跡になっている荷田在満墓がありました。
稲田在満は、江戸時代中期の国学者で、京都伏見の稲荷神社の神官荷田信詮の三男高惟の長男として京都に生まれた。23歳の享保13年(1728)9月24日、和学者として登用されることを求めて、妹蒼生子とともに江戸に下った。徳川吉宗の次男で有職故実の研究者として知られた田安宗武に仕え、有職故実の調査に従事した。叔父の春満が有職故実の研究を敬称発展させて精緻な家風を打ち立て、歌論では芸術主義を貫いて、近世歌論の展開にひとつの時期を画した。宝暦元年(1751)8月4日45歳で死去し、臨済宗京都妙心寺派の金龍寺に葬られた。著書に「大嘗会便蒙御咎顛末」「令三弁」「本朝度制略考」「羽倉考」擬古文学に「白猿物語」「落合物語」がある。(東京都教育委員会)