ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

浄光寺・江戸東部六地蔵

2016年04月02日 14時26分41秒 | 江戸名所図会めぐり

平成14年4月7日に亡くなった、同い年のテニス仲間の墓参りにいってきました。浄光寺は西日暮里の駅の上(台地)にあります。右手が浄光寺、左手は諏方神社です。

★ランドマーク浄光寺真言宗豊山派の寺院で、太田道灌説と豊島左衛門尉経泰説があります。江戸時代までは、諏方神社の別当でした。諏訪台の高台に位置し、展望が開け眺めが良く雪見に適することから「雪見寺」とも呼ばれていました。この近辺には、月見寺(本行寺)、花見寺(青雲寺)などの寺院もあり、風流を好む江戸の文人墨客が集まったことで知られています。

 江戸時代、将軍が鷹狩の際に立寄ってから御膳所にあてられ、将軍が来訪した時に腰掛けたとされる「将軍の腰掛けの石」と石の隣には、「三代将軍御腰掛石」という碑があります。 また、山門の左手には、元禄4年(1691)に空無上人によって江戸の東部6カ所に開眼された江戸六地蔵の3番目として知られる大きな銅造地蔵菩薩立像、文化6年(1809)作の銅造地蔵菩薩坐像、庚申塔等の石造物があります。

荒川区教育委員会の由緒書きがありました。

銅造地蔵菩薩の立像と坐像です。

江戸六地蔵の3番目は銅造地蔵菩薩立像の方です。

★ランドマーク江戸東部六地蔵六地蔵の由緒は、江戸時代に刊行された『江戸砂子』の記載によると、元禄四年(1691年)に、慈済菴空無上人が開眼供養したもの、また、宝永五年(1708年)に、地蔵坊正元が江戸庶民から寄進を募って造立したものと、二つ存在したと由が書かれており、元禄年中の方を「始めの六地蔵」、宝永年中のを「後の六地蔵」として紹介されています。これは「始めの六地蔵」は東部六地蔵といわれ、「後の六地蔵」を江戸六地蔵というようです。江戸東部六地蔵とは一番目が瑞泰寺(本駒込)、二番目が専念寺(千駄木)、三番目が浄光寺(西日暮里)、四番目心行寺(池之端⇒府中市)、五番目が福聚院(上野)、六番目正智院(浅草)となってます。

江戸名所図会では日暮里惣図その3、右上の浄光寺の境内に六地蔵と書かれています。その左側が諏訪明神(諏訪神社)です。

江戸の六地蔵:江戸の出入口六箇所に造立してあります東海道の品川寺や甲州街道太宗寺などで、東部六地蔵が立像なのに江戸六地蔵は坐像になっています。これは2015年1月12日に撮影した東海道品川寺の地蔵です。

 

今は、墓から日暮里にある高層マンションが見える都会の真ん中になっています。

新しく作った墓なので、まだ一人だけです。

初めて戒名を読みましたがなかなかですね。進さんで「常楽道進」とは、ご家族から見ると「常に楽しく道楽」をしていた人と思われていたのでしょか。

隣の諏訪神社の桜が見えています。

隣の諏訪神社です。

諏訪台地の桜は江戸時代から有名でした。歌川広重の名所江戸百景 日暮里諏訪の台です。

桜が満開になっていますが、神社の中での宴会は禁止されているようで静かでした。

 

拝殿です。

★ランドマーク諏方神社荒川区の西日暮里駅近くに鎮座する諏方神社は、日暮里及び谷中の鎮守である。長野の諏訪大社から元久2年(1205年)に勧請された。山を切り開いて当地に遷座したのは寛永12年(1635年)である。旧別当寺は隣の浄光寺。
社殿や社務所その他は第二次世界大戦で焼失し戦後に再建された物だが、本社神輿の神輿庫だけは焼け残った。この神輿庫は大正15年の鉄筋コンクリート建築、つまり近代和風建築である。
例大祭は8月末に行われ、本祭は3年に一度である(2014年、2017年、2020年…)。

手水鉢には天保二年と書いてあります。天保2年(1831年)を調べてみました。勝海舟が8歳、葛飾北斎が71歳だったそうです。前年1830年(文政13年、天保元年)はお伊勢参り(お蔭参り)の60周年の年で、「おかげ年」が意識されていた。伝播地域は、明和よりも狭かったが、参加人数は大幅に増えている。何故か参詣するときに、ひしゃくを持って行って伊勢神宮の外宮の北門で置いていくということが流行った。阿波の巡礼の風習が広まったとも言う。

  • 参詣者:427万6500人
  • 当時の日本総人口:3228万人(1850年)
  • 発生地域:阿波
  • 期間:閏3月初~8月末
  • 経済効果:86万両以上
    物価上昇が起こり、大坂で13文のわらじが200文に、京都で16文のひしゃくが300文に値上がりしたと記録されている。

お蔭参りの最大の特徴として、奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣したことにある。これが、お蔭参りが抜け参りとも呼ばれるゆえんである。大金を持たなくても信心の旅ということで沿道の施しを受けることができた時期でもあった。

江戸からは片道15日間、大坂からでも5日間、名古屋からでも3日間、東北地方からも、九州からも参宮者は歩いて参拝した。陸奥国釜石(岩手県)からは100日かかったと言われる。。

近くに富士見坂がありました。

見えるかと覘いてみましたが、今は見ないようです。脇小さく最近まで見えたと書いてありました。

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