東覚寺を散策してから与楽寺向かいました。だいたいの地図を頭に入れていたので、記憶に沿って歩いて行きました。
江戸名所図会の右下のところに輿楽寺六阿弥陀と書かれています。
雲がかかっているところが田端切通しでそれを横切って歩いてくるとこの標識に出合いました。
★ランドマーク与楽寺坂:坂の名は、坂下にある与楽寺に由来しています。『東京府村誌』に「与楽寺の北西にあり、南に下る、長さ二十五間広さ一間三尺」と記されています。この坂の近くに、画家の岩田専太郎、漆芸家の堆朱楊成、鋳金家の香取秀真、文学者の芥川龍之介などが住んでいました。芥川龍之介は書簡のなかに「田端はどこへ行っても黄白い木の葉ばかりだ。夜とほると秋の匂がする」と書いています。平成5年 東京都北区教育委員会
入り口は坂を昇るのか下るのか迷い一瞬登りかけましたが、気をとりなして下りました。当らしい山門が見えました。
★ランドマーク与楽寺:真言宗豊山派寺院で、宝珠山地蔵院と号し、与楽寺の創建年代等は不詳ながら、弘法大師が寺院をこの地に建立したのが始まりだと言われています。慶安元年(1648)には寺領20石の御朱印状を拝領、京都仁和寺の関東末寺の取締役寺を務めていたと言われ、江戸六阿弥陀4番、御府内八十八ヶ所霊場56番札所、豊島八十八ヶ所霊場6番札所、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場21番札所でとなっています。
入り口は脇道で、境内に入る手前に弘法大師像や
札所を示す石碑や
六阿弥陀第四番の仏塔などがありました
切絵図にも六アミダ四番と書かれています。我が家の近くに常光寺があるので、調べてみました。
★江戸六阿弥陀とは:江戸六阿弥陀は、行基菩薩が一夜の内に一本の木から六体の阿弥陀仏を刻み上げた阿弥陀仏だといい、阿弥陀仏作成を依頼した長者が六ヶ所に寺を建立、六体の阿弥陀仏を一体ずつ安置したと言われています。
1番西福寺:(北区豊島2-14-1) 西方浄土に生まれ出る福徳利益を授ける寺院
2番恵明寺:(旧延命院足立区江北2-4-3) 家内安全・息災延命の御利益を授ける寺院
3番無量寺:北区西ケ原1-34-8 福寿無量に諸願を成就させる寺院
4番与楽寺:北区田端1-25-1 我ら一切の者に安楽を与える寺院
5番常楽院:調布市西つつじヶ丘4-9-1(旧下谷広小路)常に一家和楽の福徳を授ける寺院
6番常光寺:江東区亀戸4-48-3 未来は常に光明を放つ身を得させる寺院
猫の足あと より
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★ランドマーク賊除地蔵の伝承地:与楽寺は、江戸時代には二十石の朱印高を拝領する寺院で、境内には、四面に仏を浮彫にした南北朝時代の石の仏塔があります。また、阿弥陀如来は女人成仏の本尊として広く信仰を集め、六阿弥陀参詣の第四番札所ともなっています。本尊の地蔵菩薩は秘仏となっていますが、次のような伝承がありました。
「ある夜、盗賊が与楽寺に押し入ろうとしましたが、どこからともなく、多数の僧侶が出て来て盗賊の侵入を防ぎ、遂に、これを追い返してしまいました。翌朝、本尊の地蔵菩薩の足に、泥のついているのが発見され、地蔵菩薩が僧侶となって盗賊を追い出したのだと信じられるようになりました。これより本尊の地蔵菩薩は、賊除地蔵と称されるようになりました。」
これが与楽寺の賊除地蔵伝説です。釈迦が入滅してから56億7000万年後に弥勒が現れるまでの間は、人々を救済する仏が存在しない時代とされますが、地蔵菩薩は、この時代に、みずからの悟りを求め、同時に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道の迷界に苦しむ人々を救うと信じられてきました。
江戸時代になると地蔵菩薩は、人々の全ての願望を叶える仏として信仰されるようになり、泥足地蔵・子育地蔵・田植地蔵・延命地蔵・刺抜地蔵というように各種の地蔵伝説が生み出されました。与楽寺の賊除地蔵も、これらの地蔵伝説の一つとして人々の救済願望に支えられて生み出されたものといえます。
平成元年三月 東京都北区教育委員会
関東大震災の遭難被災者供養塔がありました。大正13年9月起工と書かれています。
境内にはいろいろな建物がありました。本堂
阿弥陀堂阿弥陀堂の水盤
石仏、仏塔もいろいろとありました。
山の上まで墓石が建っています。
鐘楼です。
井戸もまだ使っているようです。
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