ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

寛永寺中堂(台東区上野桜木)江戸名所図会めぐり

2018年07月18日 08時22分45秒 | 江戸名所図会めぐり

昨年7月にも上野の山をリハビリサイクリングで散策しましたが、肝心の寛永寺の中堂を見ていなかったので、それを目標に向かいました。昨年は青い線で不忍池から山を登りましたが、今回は鴬谷の方から陸橋を一気に登りました。かなり急な坂なので、自転車を押して登ります。陸橋の上から鶯谷の方を見ています。

こちらが寛永寺中堂(本堂)です。

★ランドマーク寛永寺本堂:寛永寺(かんえいじ)は、東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。山号は東叡山(とうえいざん)。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。

徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、慶応4年(1868年)の上野戦争で主要伽藍を焼失した。野戦争の碑

現在の東京国立博物館の敷地は寛永寺本坊跡であり、博物館南側の大噴水広場は、根本中堂のあったところである。

上野の山は、幕末の慶応4年(1868年)、彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となったことから、根本中堂をはじめ、主要な堂宇はこの時焼失し、壊滅的打撃を受けた。明治維新後、境内地は没収され、輪王寺宮は還俗、明治6年(1873年)には旧境内地が公園用地に指定されるなどして寺は廃止状態に追い込まれるが、明治8年(1875年)に再発足。もと子院の1つの大慈院があった場所に川越の喜多院(天海が住していた寺)の本地堂を移築して本堂(中堂)とし、ようやく復興したものの、寺の規模は大幅に縮小した。

第二次世界大戦の空襲では、当時残っていた徳川家霊廟の建物の大部分が焼失した。上野戦争で焼け残り、第二次世界大戦の戦災もまぬがれたいくつかの古建築は、上野公園内の各所に点在している。(ウイキペディアより)

寛永寺銅鐘
台東区登録文化財 平成18年3月登載

 本銅鐘は、青銅製鋳造。大きさは、総高177.2センチメートル、口径91.8センチメートルあります。厳有院殿(四代将軍家綱)の一周忌にあたる延宝9年(1681)5月8日に廟前の鐘楼に奉献されました。明治維新以降に、寛永寺根本中堂の鐘として、当所に移されたと伝えられます。ちなみに、本銅鐘が元々掛けられていた厳有院殿廟の鐘楼は、戦前まで残されており国宝に指定されていましたが、空襲により焼失してしまいました。現在本銅鐘は、除夜の鐘や重要な法要の際に使用されています。
 作者の椎名伊予守吉寛は、江戸時代前期(十七世紀後半)に活躍した江戸の鋳物師で、神田鍋町に住していました。延宝元年(1673)から貞享3年(1686)にかけて、銅鐘を中心に十七例の作例が知られています。その中には増上寺や寛永寺などに関わるものも含まれており、将軍家との関係が深かったと思われます。
 本銅鐘は、将軍家霊廟の儀式鐘で、近世初期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上でも貴重な遺品のひとつです。

境内にはいろいろな史跡がありました。

★慈海僧正墓 (じかいそうじょうはか):墓石の正面中央に、聖観音菩薩の像を彫り右側には「当山学頭第四世贈大僧正慈海」左側に「山門西塔執行宝園院住持仙波喜多院第三世」、背面に「元禄六年癸酉二月十六日寂」と刻む。
 慈海僧正は、学徳をもって知られ、東叡山護国院、目黒不動、比叡山西塔宝園院、川越仙波喜多院を経て東叡山凌雲院に入った。東叡山は、寛永寺一山の山号で、一山を統轄、代表する学頭には凌雲院の住職が就任することを慣例としたという。学頭は、また門主・輪王寺宮の名代をつとめうる唯一の有資格者であり、学頭の名のとおり宮や一山の学問上の師でもあった。慈海版として知られる『法華経』『薬師経』の翻刻や『四教義算注』『標指鈔』三十巻の著作がある。
 寛永元年(一六二四)目黒で生誕。七十歳で没した。没後、公弁法親王の奏請によって大僧正の位が贈られた。墓は、初め凌雲院内にあったが、昭和三十三年東京文化会館建設のため寛永寺に移った。

鬼瓦

 

蟲塚です。

★了翁禅師塔碑:了翁は号、諱名を道覚といい、黄檗宗の僧である。出羽国雄勝郡に生まれ、幼い頃から僧門に入った。承応年間(1652-55)隠元禅師に師事し、のち諸国を巡錫している途中、夢の中でたまたま一種の薬法を修得し、これを錦袋円と名づけて、江戸上野不忍池の池畔に店舗を営んだ。数年にして数千両を得、江戸大火に際し、罹災民の救済に私財を投じ、さらには経典七千巻を購入して経庫を造ってこれを寛永寺に寄贈した。天和3年(1683)には勧学院を建てて教育に尽力、その功によって輪王寺宮より勧学院権大僧都法印に任じられた。宝永4年(1707)5月没。ときに78歳。昭和43年10月1日建設(東京都教育委員会)

以前の中堂は江戸名所図会の不忍池からも見えていました。

現在の噴水の所のようです。

 

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