ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

保元寺(台東区)、江戸名所図会めぐり

2017年08月11日 10時14分31秒 | 江戸名所図会めぐり

近くまでは何度も訪れていましたが、中まで入ったのは初めてです。

江戸名所図会では法源寺となっています。

★ランドマーク保元寺:保元寺は、奈良時代の宝亀元年(770年)に当地に創建したと伝えられています。法相宗、真言宗など諸宗派を経て、増上寺開山酉誉上人弟子惣誉酉公大和尚により浄土宗となりました。江戸期に保元寺を法源寺としたものの、大正時代に保元寺と寺号を戻し、現在に至ります。

 

法源寺の上に鏡が池と書いてあるようです。

切絵図古地図では浅茅が原をの破棄に鏡が池になっています。

本堂です

保元寺の縁起の大きな石碑がありました。

保元寺は奈良時代の宝亀元年(770年)に此の地に創建された都内でも数少ない古刹(古寺)である。当時都鳥鳴く隅田川に面した此の地は砂尾の石浜と云われ、保元寺も砂尾の石浜道場と呼ばれていた。

とき移り平安時代の保元元年(1156年)後白河天皇の勅許を得てときの年号を寺名として保元寺と改称した。嘉元元年(1305年)には時宗の宗祖一遍上人もしばし保元寺にとまり修行している。

 南北朝時代足利尊氏が新田義興と此の地で合戦し敗走したと太平記巻31に「石浜の合戦」として記されている。

その後、幾度もの戦いに保元寺はまったく荒廃し、ただ淒涼たる武蔵野の保元寺の歴史を惜しみ、芝の増上寺初代法主、西誉聖聡上人が弟子の聡誉西仰に保元寺を再興させた。この時から保元寺は浄土宗の寺となったが、一時は法源寺と用字を変えたときもあった。

 境内には延文2年(1070)に亡じた鎌倉権太夫景通の古塔、木曽義仲とのいくさに白髪を黒く染めて奮戦した斉藤実盛の石仏、江戸時代の蘭学者で画師谷文晁の師でもあった日本最初の洋風画家の北山寒厳の墓と古碑、江戸幕府の医師で日本最初の天然痘予防接種をした桒田立斎の墓と古碑などがある。また歴代住職の古塔、寛文の頃より元禄その他の年号を刻された石仏など多数が現存する。

 保元寺は浄土宗別格であり正しくは帰命山薬王無量院保元寺と称する。

 此の碑は、一代の書聖栖原家の志により建立した。先生は芝増上寺の林祖洞師の高弟にして、生涯一万冊の各蹟を発願し以来60年幾多の困難に耐え、遂に成満しこれを駒澤大学図書館に寄贈された。

 先生は此の浄業大成の後昭和47年5月5日永眠され葬られた。行年80歳

石碑のところに榎本武揚一族の墓の碑がありました。

★ランドマーク榎本武揚の墓:榎本 武揚(えのもとたけあき、1836年10月5日(天保7年8月25日)―1908年(明治41年)10月26日)は、日本の武士(幕臣)、化学者、外交官、政治家。海軍中将、正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川(りょうせん)。榎、釜を分解した「夏木金八(郎)」という変名も用いていた。なお、武揚は「ぶよう」と故実読みでも呼ばれた。 

伊能忠敬の元弟子であった幕臣・榎本武規(箱田良助)の次男として生まれる。昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学した。帰国後、幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、いわゆる「蝦夷共和国」の総裁となった。箱館戦争で敗北し降伏、東京・辰の口の牢獄に2年半投獄された。 

敵将・黒田清隆の尽力により助命され、釈放後、明治政府に仕えた。開拓使で北海道の資源調査を行い、駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結したほか、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は、逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣などを歴任、子爵となった。

また、メキシコに殖民団を送ったほか、東京農業大学の前身である徳川育英会育英黌農業科や、東京地学協会、電気学会など数多くの団体を創設した。墨田区の防災団地の前に榎本武揚の像が建っています。

本堂の脇にお地蔵さんが建っています。

手前が救苦地蔵、奥が水子地蔵です。

一番奥に

手前のところに

井戸の跡などがあります。

墓地に向かうと

いずれも江戸時代以前の石碑です。

墓地の中です。

墓地の入り口のところに

桑田立斎の墓がありました。

★ランドマーク桑田立斎(くわたりゅうさい):没年:明治1.7.21(1868.9.7)生年:文化8.7.10(1811.8.28)

幕末の蘭方医。越後国(新潟県)新発田地蔵堂生まれ。村松正親の3男。天保8(1837)年江戸に出て,坪井信道の日習堂に入門して蘭医学を学んだ。12年1月蘭方医桑田玄真の養子となり,人痘接種に熱心であった養父からその手法を学んだ。13年4月江戸深川海辺大工町の万年橋の畔に小児科を開業して診療に当たるとともに,嘉永2(1849)年に蘭館医モーニケによってもたらされた牛痘法の意義をいち早く認めて,10万人の人々に牛痘接種を行おうとの悲願を自らに課して,これに専念した。安政4(1857)年蝦夷地開発政策の一環として,アイヌに牛痘を強制接種する方針が幕府によって採用され,深瀬洋春と共に蝦夷地に渡ってこれに従事した。立斎は箱館から東に足をのばしてついに国後島まで達し,6400名余りのアイヌに牛痘接種を実施した。小児疾病の治療のみならず,小児の栄養や養育の重要性を説いて,仮名交じり文の庶民向け育児書『愛育茶譚』(1853)を出版した。そのほかにも完成をみなかったものの,済幼院(育児院)の建設計画なども描いており,根っからの小児科医であったということができる。(朝日日本歴史人物事典より)

山門の裏の所にも墓がありました。

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