晴天につられて東京スカイツリーのある押上駅から船橋まで京成電車で出かけました。江戸名所図会に船橋意富比神社と載っている船橋大神宮を散策しました。江戸名所図会大人の塗り絵より
京成船橋駅の次が大神宮下駅になります。少し前に船場駅と同様に高架になりました。
江戸名所図会の右隅にある鳥居の所から入りました。入り口を入った右側に建っています。
最初の御神燈です。
参道にはいろいろな碑が立っています。
二の鳥居 第62回神宮式年遷宮 記念事業 二の鳥居造替 高さ18尺 笠木24尺 平成25年6月15日完成
※参考 伊勢神宮の宇治橋鳥居 高さ7.44m、約22尺 ということだそうです。神社のHPより
神社にもお百度石がありました。拝殿です。
★ランドマーク意富比神社(船橋大神宮):景行天皇四十年に日本武尊が東国御征討の途次、船橋に到着し天照皇大神を奉祀して創建したといいます。延喜式に「意富比神社」と記載される古社で、源義朝が院宣を受けて神社再興の折には船橋伊勢大神宮と記載されているといいます。江戸開府の頃、徳川家康公が社領を寄進、奉行をして本殿・末社等を造営し、以来江戸時代を通して五十石の土地が幕府から寄進され幕末に至りました。
社殿の景観は、江戸時代末期の「江戸名所図会」のように船橋地方随一の名所であり、遊山の旅人はたいてい参詣したそうです。
明治直前の慶応4年(1868)に戊辰戦争の局地戦が房総で起こった際、当社が幕府方脱走兵の一拠点とされたために、官軍方の砲撃で消失という災難にあってしまいました。
明治に入り、当社は仮社殿でありましたが、まもなく正式に再建されました。また、明治初期に新政府の政策として、全国の神社の社格が決められた時、当社は現市域唯一の「県社」とされました。 その後、明治6年(1873)に本殿が造営されたのを初めとして、大正12年(1923)、昭和38年(1963)、同50年(1975)、60年(1985)に本殿・拝殿・末社・鳥居・玉垣・参道に至るまで随時造営がなされ、県文化財指定の灯明台の修復なども経て、今日に至っております。(神社のHPなどより)
由緒が書いてるようですがよく読めません。
神輿庫です。
神輿が二基納まってます。向かって左に本町八坂神社の神輿。右に湊町八剱神社の神輿。だそうです。また、通常、社殿の中に鎮まっている神様がお祭りの際に乗のが神輿ですが、ここでは実はこの神輿自体が神社そのもので、神様は常にこの神輿にお鎮まりになっているそうです。
常磐神社(摂社) 大神宮を崇敬・庇護した徳川家康公、秀忠公を御祀りしてあります。
大鳥神社:御祭神は日本武尊で、例年十二月の酉の日、壱之酉、弍之酉が例祭日で、境内は酉の市として賑わい、熊手等を商う露天商が出店して、夜遅くまで近在の人々で活気があり、「船橋のお酉様」として親しまれております。
灯明台(千葉県指定文化財)大鳥神社の後ろの丘に立てられている木造瓦葺の灯明台は、3階建てで高さ12m程あります。3階の灯室は、洋風の灯台の様式を採り入れた六角形で、ひときわ目を惹きます。明治13年(1880)、地元の漁業関係者によって建設されました。普段は非公開ですが、正月三が日は公開しているということです。
慰霊碑のところに猫さんが鎮座していました。
豊受姫神社(外宮)
御祭神の豊受大神は、伊勢豊受大神宮(外宮)に御祀りされ、天照皇大御神のお食事を司られる神様で、五穀豊穣と衣食住の守り神様です。こんなものが置いてありました。
境内社がたくさんあります。ここへくると多くの神社にお参りができるようです。天之御桂宮
こちらは趣があったので入ってみました。お宮には八雲神社と書かれていました。
江戸名所図会左側からの入り口階段があります。上から見たところ登ったところに船玉神社です。
末社群に続いて金毘羅社があります。隣が神輿庫です
江戸名所図会大人の塗り絵より
絵では9月20日の祭りになってますが、今は10月20日が大祭になっています。
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