ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

湯島聖堂(文京区湯島)江戸名所図会めぐり

2017年09月28日 13時12分23秒 | 江戸名所図会めぐり

湯島聖堂は何回か訪れていますが、この9月にも、三楽病院の帰りに散策してみました。御茶ノ水橋を渡ってこの道を下ってきました。足元のところに古跡昌平坂と書いて書いてありました。

今歩いてきたところなのか神田明神に向かう坂を言うのか迷っていたらいわれが書いてありました。

★ランドマーク相生坂(昌平坂):神田川対岸の駿河台の淡路坂と並ぶので相生坂という。

  『東京案内』に、「元禄以来聖堂のありたる地なり、南神田川に沿いて東より西に上る坂を相生坂といい、相生坂より聖堂の東に沿いて、湯島坂に出るものを昌平坂という。昔はこれに並びてその西になお一条の坂あり、これを昌平坂といいしが、寛政中聖堂再建のとき境内に入り、遂に此の坂を昌平坂と呼ぶに至れり」とある。そして後年、相生坂も昌平坂とよばれるようになった。

  昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。

ということで神田川に沿っての坂は相生坂、神田明神の方に向かう坂を昌平坂とよんでいたが、相生坂も昌平坂というようになっかようですです。

帰りがけに

聖橋の上から昌平坂を見てみました。左手の木々のところが湯島聖堂です。

神田川の上を地下鉄丸の内線が走っています。

一般の入り口から湯島聖堂の敷地に入りました。

入り口のところに案内板があります。

★ランドマーク湯島聖堂:寛永9年(1632年)、尾張藩主徳川義直林道春(羅山)をして、上野忍ヶ丘に先聖殿を造営せしめしに始まる。その回禄(火災)の災に罹るや、元禄3年(1690年)、将軍綱吉之を今の地に移して、大成殿と稱せり。後、寛政11年(1799年)大成殿及び杏壇・入徳・仰高諸門を再建し、明治維新の際、大学を此地に置くに及び、一旦 孔子 以下の諸像を撤去せしも、後、もとに復せり。

 建造物は暫らく東京博物館の一部に充てたりしたが、大正12年(1923年)9月1日、関東大震災の為、入徳門・水屋等を除くの外、悉く焼亡せしを昭和10年(1935年)4月4日鐡筋混凝立構造(てっきんこんくりーとこうぞう)に依りて原型に複せり。

   昭和11年(1936年)3月 文部省

★仰高門 -ぎょうこうもん-鉄筋コンクリート造。平家建。切妻造り。 延面積10.73m2、昭和10年(1935)4月竣工。

 仰高門-仰高とは、「論語」子罕第九「顔淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅。」による。 曲阜の孔子廟では、西方にある。一般見学者用の入り口になる門。

 上野林家の先聖殿創建時には無い。元禄3年、湯島移築の際には見える。

正面にある建物は斯文会館です。

 

江戸名所図会より

わたし彩(いろ)「江戸名所図会」より

キャプション 『新葉集』釈尊

 から人のむかしのかげをうつし来てあふげば高き秋の夜の月 妙光寺内大臣

この図では右下の坂が昌平坂になっています。

奥に神農廟があるようですが11月23日しか入れないようです。

★神農廟 -しんのうびょう-

元禄11年(1698)4月、聖堂構内東北の隅に祠堂を建て、神農像を祀った。この神農像は、寛永17年(1640)徳川家光の命により、山下宗琢が建立。作者は、明石清左衛門、藤原真信。雑司谷薬園に祀る。 明治16年(1883)浅田宗伯が医生の養成のため温知黌を開き、その労により浅田家に神農像が下賜された。のち、木村博昭が浅田家を継ぎ、像は本郷曙町の木村家に移る。 昭和18年(1943)神農像が木村家より斯文会に寄贈され、6月末、敷地内東角に神農廟を移築。これより毎年、11月23日に神農祭を挙行。

※11月23日のみ一般公開しております。

仰高門を入ります。通路にお茶の木でしょうか、花が咲いていました。

突き当りに大きな木があります。楷樹とあります。

★楷樹の由来 楷 かい 学名 とねりばはぜのき うるし科 PISTACIA CHINENSIS,BUNGE(Pistacia Chinensis Regel)

楷は曲阜にある孔子の墓所に植えられている名木で、初め子貢が(孔子の墓所に)植えたと伝えられ、今日まで植えつがれてきている。枝や葉が整然としているので、書道でいう楷書の語源ともなったといわれている。

わが国に渡来したのは、大正四年、林学博士白澤保美氏が曲阜から種子を持ち帰り、東京目黒の農商務省林業試験場で苗に仕立てたのが最初である。これらの苗は当聖廟をはじめ儒学に関係深い所に頒ち植えられた。

その後も数氏が持ち帰って苗を作ったが、性来雌雄異株であるうえ、花が咲くまでに三十年位もかかるため、わが国で種子を得ることはできなかったが、幸いにして数年前から二三個所で結実を見るに至ったので、今後は次第に孫苗がふえてゆくと思われる。

中国では殆んど全土に生育し、黄連木・黄連茶その他(黄棟樹、黄連、蓮連木など)の別名も多く、秋の黄葉が美しいという。台湾では爛心木と呼ばれている。牧野富太郎博士は、これに孔子木と命名された。

孔子と楷とは離すことができないものとなっているが、特に当廟にあるものは曲阜の樹の正子に当る聖木であることをここに記して世に伝える。

昭和四十四年秋日   矢野一郎 文並書 となっていましたが今のものは平成二十二年に松川 玉堂 さんが書きなおしたようです。

★孔子銅像:昭和50年(1975)中華民国台北市 ライオンズ・クラブからの寄贈。11月3日除幕式を挙行した。

 丈高15呎[4.57メートル]重量約1.5トンの孔子の銅像は世界最大。

子曰、有教無類。(論語)

〔読み下し〕
(し)(のたま)わく、(おし)え(あ)りて(るい)(な)し。

〔通釈〕
孔子云う、「人は教育によってどうにでもなるものであって、生まれつき貴賎の差があるものではない」と。

 

入徳門 -にゅうとくもん- 木造、平家建。切妻造り。延面積14.16m2  宝永元年(1704)建造。

 

 入徳門-入徳とは、朱熹の「大学章句序」「子程子曰、大学、孔子之遺書而初学入徳之門也。」による。上野忍ヶ岡の林家の先聖殿創建時にも入徳門有り。曲阜の孔子廟には無い。江戸官学・朱子学の影響か。聖堂内、唯一の木造建造物。

手水場

過日の台風の影響か木が裂けていました。

杏壇門 -きょうだんもん- 間口20メートル、奥行4.7メートル、入母屋造り。

 杏壇門-杏壇とは、山東省曲阜にある孔子の教授堂の遺址のこと。宋の乾興のとき、大殿(大成殿)を後方に移し、教授堂(講堂)の跡地を瓦敷きにして壇(高台)とし、周囲に杏を植え、金の党懐英が「杏壇二字碑」を建立。のちそこに門扉が設けられ、杏壇門の名称が付けられた。

門の並びにある天水鉢に水がいっぱい入っていました。おかげさまで蚊に少し刺されました。

大成殿 -たいせいでん-  間口20メートル、奥行14.2メートル、高さ14.6メートル、入母屋造り。

 大成とは、孔子廟の正殿の名称。   宋(北宋)の仁宗のとき命名。

 「孟子」万章下「孔子聖之時者也、孔子之謂集大成、集大成也者、金聲玉振之也。」に基づく。 殿内、中央の神龕(厨子)に孔子像。左右には四配として孟子・顔子・曽子・子思の四賢人を祀る。

外廊下の所に

歴史についてのパネルがありました。

いつもは気づかなかったのですが屋根の上の守護獣です。

錦絵にも描かれています。広重 名所江戸百景  

昌平橋聖堂神田川 より

神田川と相生坂、聖堂の塀が描かれています。

神田明神と聖堂の屋根です。北斎 新板浮絵神田明神御茶の水ノ図  です。

江戸の切絵図でも神田明神と聖堂は隣り合わせになっています。

今回は訪れませんでしたが以前神田明神で撮ったものです。

キャプション『新葉集』釈尊 

から人のむかしのかげをうつし来てあふげば高き秋の夜の月 妙光寺内大臣

 帰りがけにお茶ノ水に、向かう聖橋で振り返ったらビルにレリーフが見えました。

以前に調べたところ「記念壁画レリーフ」ということで「中央はヴァチカン宮殿「署名の間」に描かれているラファエロ作「アテネの学堂」であり、対話による教育の原点を表しています。左は医学の父ヒポクラテス像とあるべき医師の心得とされる「ヒポクラテスの誓い」、右は1846年マサチューセッツ総合病院で行われた歯科医師モートンによる世界最初の全身麻酔公開実験を描いたロバート・ヒンクリーの作品です。
これらの壁画レリーフは、「教育」「研究」「診療」を題材としており、医歯学総合研究科・保健衛生学研究科の誕生により大学院重点化大学となった本学が、21世紀を迎えた今日、世界的拠点となるべく歩み始めたことを記念して作製されたものです。」と医科歯科大のHPに書かれていました。

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