鍼灸治療の予約が中途半端な時間になってしまったので、帰りがけに「江戸名所図会」に描かれており、東京十社にも載っている文京区の白山神社を散策しました。都営地下鉄の白山駅のA3出口から向かい、ちょっと上り坂でしたが鳥居のところに着きました。。
★ランドマーク白山神社:創開は古く、天暦年間(947~957)に加賀一宮白山神社を現在の本郷一丁目の地に勧請したと伝えられる。
後に元和年間(1615~1624)に2代将軍秀忠の命で、巣鴨原(現在の小石川植物園内)に移ったが、その後五代将軍職につく前の館林候綱吉の屋敷の造営のため、明暦元年(1655)現在地に再度移った。この縁で綱吉と生母桂昌院の厚い帰依を受けた。(文京区のHPより)江戸名所図会より
鳥居は右手奥入り口のところに当るようです。
手前の階段のところは白山通りからの入り口のところになるのでしょうか。
★白山神社由緒:当社人皇六十二代村上天皇天暦2年(948)9月加賀一宮白山神社を武蔵国豊島郡元国木と号して今の本郷元町に奉勧請す。
建武4年(1338)足利尊氏により国家平安御祈願所に命ぜられ永百貫文之御判物を賜る。元和2年(1616)徳川秀忠公の命に依り小石川白山御殿(巣鴨原)へ遷座、慶安4年(1651)徳川家綱公の用地と相成り、明暦元年(1655)現在地に移奉す。同年社頭其外造立に相成り、後に五代将軍家綱公之生母桂昌院の信仰を受けらる。元禄年中までは本社摂社寄附神楽宝庫は勿論神官宅まで、旧幕府より修繕を加えられる。寛文6年(1677)9月29日祭礼賑々しく執行いたすべき旨申し渡され、御開帳並びに祭具等寄附あり。
元禄3年(1690)正月29日旧幕府より社領30石寄附之あり。右朱印元禄6年(1693)9月29日戸田能登守相渡さる。元禄16年(1703)11月29日小石川辺より出火、本社摂社末社宝庫並びに祭具のこらず社中惣門まで悉く類焼し、宝永元年(1704)6月14日加藤越中守掛にて仮殿手当として金500両桧5000挺寄附あり。再建せられたるも享保3年(1719)3月回禄の時再び火災にあい宝物什器祭具等悉く焼失す。後数十年間本殿のみ建立しありしに明治32年拝殿建設、昭和8年改修し同9年9月18日盛大に正遷座大祭施行す。
なお白山御殿の地名は元白山社地なるが故であり、小石川の地名は始め加賀国石川郡より奉勧請当社鎮座の旧地に倣へるが故なり。
当社は明治元年勅祭神社に準じられ(準勅祭神社)、東京十社の一つである。
社殿です。枝垂れ桜が植えられています。
手水舎
今は境内のあちこちに梅の花が咲いています。
後ろの浅間神社(富士塚)にも梅が咲いていました。富士塚は紫陽花の時期に多くの参拝者が訪れるようです。
他の境内社には八幡神社
★白幡桜:平安時代の永承6年(1051年)、八幡太郎義家が奥州平定の途中、この地を通った時、旗をこの樹にかけ戦勝を祈願したと伝えられており、この事から白旗桜とも呼ばれているそうです。
旗桜記
桜の根元にある桜記碑(明治29年(1896年)建立)
関東松尾神社
★嵐山の松尾大社(京都市西京区嵐山宮町3):京都盆地の西一帯を支配していた秦氏により、西暦701年(大宝元年)創建された京都最古の神社です。渡来人の秦氏に酒造りの技能者が多く見られたことから、室町時代末期頃から「酒造第一祖神」として崇拝されるようになったということです。
稲荷神社稲荷神社の脇に石碑がありました。冨士登山同行記念碑でしょうか。
その他に
何を祀ってあるのか不明でしたがありました。
境内は広く駐車場になっていました。後ろのビルは東洋大学でしょうか。
こんなのもありました。桜の木です。潤一郎の奉納の桜です。
福寿草
万両
サザンカ
銀杏の木は保護樹銀杏の下に神輿蔵が並んでいます。
社殿の裏は白山公園でアジサイいの名所のようです。とりあえず今は梅が咲いています。高校のグランドから絶壁になっていて高台にあることがわかります。
鳥居を入ったところの左手に「孫文先生座石」が建っていました。
★孫文先生座石の碑:碑文の略記には「明治43年(1910)5月中旬、神社近くに住む盟友、宮崎滔天宅に寄遇していた孫文は滔天と共に、白山神社の境内の石に腰掛け、中国の将来と革命について語り合った。そのとき、夜空に光芝を放つ、一条の流星をみた。このとき、祖国の革命を心に誓った。そして、清朝を倒した辛亥革命の最高指導者となり、中国国民党の創設者になった。孫文が流星を見て、清朝を打倒し、新中国建設を誓った場所を後世に残そうと、白山神社の清水宮司を中心に町会有志が、この記念碑を建立した。
孫文と滔天が見た、一条の光芝を放つ流星は、ハレー聾星ではないかと思われる。ハレー彗星が太陽に最も近づいたのは、明治43年(1910)4月20日であった。中国や日本では、むかし、この星を妖星と呼び、変事が起こるきざしと考えられていた。」(文京区史跡さんぽ実施報告書より)
手前の黒い石が腰かけて話し合ったもののようです。
江戸時代の切絵図です。広い通りが旧白山通りになります。根津神社(根津権現)も近くにあります。