ハリスと接見するという大役を果たした13代将軍を徳川家定ですが、彼の名は余り世間には知られていないのではないでしょうか。奥さんを二人続けて失くし、子供もおりませんでした。そんな家定のもとに、3人目の奥さんがやってします。この方こそ!有名人篤姫じゃ。ドラマの主役になるほどの名の知れた人。そうよ、篤姫よ。この婚姻がまたすごくて、何がすごいのかというと、壮大な政略結婚とでもいいますか、、。そう、家康の頃から度々チェックが入った薩摩藩、の島津家、しかも島津家の中でもキラッ🌟と光る実力派、藩主島津斉彬の養女が、幕府の徳川家に嫁ぐわけですから。もうそれだけでびっくりドキドキです。でも、実は島津は、これより少し前にも幕府徳川に娘を嫁がせているんです。島津重豪の娘、茂子、が徳川家斉のもとに嫁に行っとります。たくさん子供をもうけ、当時としては長生きだった事から、島津家のおなごはいいんじゃないの?的な評判ももしかしたらあったのかも。
というわけで、どのような経緯があったかはわかりませんが、島津斉彬の養女でのちに将軍家の養女となる敬子(後の篤姫=天璋院)が、家定の3人目の嫁となります。、、が、残念なことに家定は、篤姫と結婚して2年も経たずに脳溢血を起こし、そのまま亡くなってしまいました😞。ここから熾烈な家定の後継者争いが始まるのですが、それは後に述べるとして、今は篤姫について書いてみます。篤姫(本名、敬子)は、結婚してわずか2年も経たないうちに未亡人となってしまいましたが、家定亡き後も薩摩には戻りませんでした。幕府に留まることを決意したのです。( ・ิω・ิ)せやで!わたしゃ最後まで幕府を支える決心やで!(by篤姫😉)。
家定亡き後、篤姫は仏門に入り、天璋院と名乗ります。そんな篤姫の何がすごかったのでしょう。調べていきましょか。
篤姫は天璋院になってから、本丸に戻り大奥の取締役となります。つまり、、ボスやね。
篤姫は、自分の結婚が、藩と幕府を結ぶための架け橋婚だった事をきちんと自覚していた人なのでしょう。家定の3番目の嫁を、何としても島津から送り込みたい!と島津斉彬は考えていたし、将軍家は将軍家で、「以前島津から将軍家に嫁いで来た広大院、、あの人は上部で仕事もでき子を沢山生んだよなあ、、。島津からまたよめもらえないかしらん、、」と互いの意向が合致したんですな。、、そんな篤姫は、天保6年、薩摩一門の今和泉家の生まれです。生まれた時の名前は一子。一子→敬子→篤姫→天璋院いやー、変わる変わる🌀。
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