さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

『桂園一枝講義』口訳 201-211

2017年06月03日 | 桂園一枝講義口訳
201 雪中厭人
朝夕にまてばこぬ人なかなかにゆきにや跡をつけんとすらん
四一四 朝夕(あさゆふ)に待てば来ぬ人中々に雪にやあとをつけむとすらむ 文政五年

□本人の情をおすときは、朝夕まつ人がこぬとよいが、といふ事は、なきことなれども、そこが歌なり。どうぞこぬとよいが、といふが、即ちやはり気にかかりて来てほしい場があるなり。たとへば、うまき物を煮たる時、たれそれがきてしたゝかくうであらう、などいふは、来てしたゝか食へばよいかといふ事なり。常の情にあることなり。

○本人の気持を推測する時は、朝夕待つ人が来なければよいが、などという事は、無いことであるけれども、そこが歌なのだ。どうぞ来ぬとよいが、と言う(ところ)が、つまりやはり気にかかって来てほしいという場面があるのである。たとえば、うまい物を煮た時、誰それが来てしたたか食うであろう、などというのは、来てくれてしたたかに食えばよいがという事である。(世の)常の情にあることだ。

202 
ふりはへて誰はとふともわがやどの雪にはいまだあとなしといへ
四一五 ふりはへて誰(たれ)はとふともわが宿の雪にはいまだ跡なしといへ 享和二年

□むざとふみこみてはくれな、となり。
○むやみに踏み込んではくれるな、というのである。 

203 雪似花
梅の花ちるにまがひてふる時はゆきさへにほふこゝちこそすれ
四一六 梅花ちるにまがひてふる時は雪さへにほふ心地こそすれ 文政九年

□実景でよみたる歌なり。
○実景で詠んだ歌である。

204 山雪
かきくらしふる大空にちかければ山にはゆきぞまづつもりける
四一七 かきくらし降(ふる)おほ空にちかければ山には雪ぞまづ積りける 

□せのたかき人に雨の早くふるの雑談の類なり。
○背の高い人に雨が早く降る、という雑談の類である。

205 遠山雪
みやこより雲居に見ゆる葛城のたかねさやかにつもるゆきかな
四一八 みやこより雲井に見ゆるかつらぎの高根さやかにつもる雪かな 享和元年 五句目 雪降リニケリ

□姿にてよみおろしたるうたなり。
古歌に「都より雲の八重たつ横川の」といふあり。少し聞きにくきなり。

○姿で詠みおろした歌である。
古歌に「都より雲の八重たつ横川の」というのがある。(あれは)少し聞きにくい歌である。

※「みやこより雲の八重たつおく山の横川の水はすみよかるらむ」天暦御歌「新古今和歌集」一七一八。

206 河雪
夜もさむし瀬の音も高しみよし野の大河のへにゆきぞふるらし
四一九 夜も寒し瀬の音(と)も高しみよしのゝ大河の辺に雪ぞふるらし

□趣向よりも姿を旨とす。今夜は寒し。瀬の音も高く聞ゆるよしのの辺に住人の言ふ体なり。たとへばふるさとあたりでよむべし。
山に雪が深くつもれば水がつとますなり。
「降雪はかつぞけぬらし足曳の山の滝津瀬音まさるらし」、雪どけではなきなり。雪がふる時は水がますは、直に雪が消ゆるかしらぬと、うたがひてよむなり。

○趣向よりも姿を旨としている。今夜は寒い。瀬の音も高く聞える吉野の辺に住む人が言う体である。たとえばふるさとあたりで詠むものだろう。 
山に雪が深くつもれば水がつっと増すのである。 
(たとえば)「降雪はかつぞけぬらし足曳の山の滝津瀬音まさるらし」、(これは)雪どけではないのである。雪がふる時は水が増すのは、すぐに雪が(溶けて)消えるからだろうかと、疑って詠むのである。

※「ふる雪はかつぞけぬらしあとひきの山のたきつせおとまさるらし」読人しらず「古今集」三一九。二〇五番とともに、「姿」ということを言っている。万葉調の歌だから、これも享和年中の歌であろう。景樹の作風の変遷については黒岩一郎の著書に詳しい。

207 山家雪
白ゆきのつもるにつけて山ざとはふかくなりゆく年をしるかな
四二〇 白雪の積るにつけて山ざとはふかくなりゆく年をしるかな 文化三年

□此の通りにして、別にときかたなし。此の歌、元来「山家雪」の題ではなかつた。
○この通り(の歌)であって、別に解きかたはない。この歌は、元来「山家雪」の題ではなかった。

208 松雪深
はらへばやかへりて雪のつもるらんさらばとよわる軒の松風
四二一 はら(拂)へばやかへりてゆきの積るらむさらばとよわる軒の松かぜ 文政七年

□秋山が難じたるは聞きにくい故なり。はらへどもはらへどもつもりかかる雪ゆゑ、はらはずにおくがよきか、と。松の心なり。
松にはゆきがよくつもるなり。きゆるもおそきなり。葉がこまい故なり。さらば拂ふまいとよわると聞なしたるなり。

○秋山が(『大ぬさ』で)難じたわけは意味がとりにくいからである。払っても払っても積もりかかる雪なので、払わずにおく方がよいか、と。(そう尋ねられた)松の心である。
松には雪がよく積もる。消えるのも遅い。葉が細かいからだ。それならばと払わない(ままにしておこうという)のでは困ると(松が言ったように)聞きなしたのである。

209 旅山雪深
おぎそ山大ゆきふれりあらくまのこもるうつほにやどやからまし
四二二 おぎそ山おほ雪ふれりあら熊のこもるうつぼに宿やからまし 文化二年

□此の歌、一句一句あらあらしくよみ出たり。
「おぎそ山」、木そ山の事也。「万葉」に「於木曾」とあり。されば「大きそ」なるべし。「小きそ」も歌の上ならではあるやうなり。「大くら」を「おくら」の池、「大荒」を「おあらき」の類なるべし。
「大雪ふれり」、「万葉」二の巻に「此の里に大雪ふれり」とあり。あまりよろしからぬ詞なり。されども、つり合すれば所によりてかけ合ふなり。「あらくま」は、ただ熊なり。「うつほ」、中のうつろの所をさす。木にも石にもある也。

○この歌は、一句一句あらあらしく詠み出している。
「おぎそ山」、木曽山の事である。「万葉」に「於木曾」とあり。されば「大きそ」であるだろう。「小きそ」も歌の上ならばあるようだ。「大くら」を「おぐら」の池、「大荒」を「おあらき」と言う類だろう。
「大雪ふれり」、「万葉」二の巻に「此の里に大雪ふれり」とある。あまりよくない歌句である。けれども、(語と語を上手に)つり合わせれば所によって(配合のバランスが)合うのである。「あらくま」は、ただの熊のことだ。「うつほ」は、中がうつろの所をさす。木にも石にもある。

※こういう歌は、武士にも貴族にも人気があっただろう。二句目で「万葉集」の天武天皇の歌「わが里に大雪ふれり大原のふりにし郷にふらまくは後」を踏まえて、下句に「あら熊」などという鄙の材料を持って来る。実にうまい。こういう取り合わせの修辞法についても、黒岩一郎の本にはきちんとした分析がある。「此の里に大雪ふれり」の言い間違いは、講義の口調をそのまま残したもので、逆にこの講義がよけいな校訂を加えていないものであることを証するものである。

210 加茂の臨時の祭久しく絶えたるを、ことし再興ありけるに其の日しも雪のふりければ、かの西行の「うらがへすをみの衣」とよめりし事を遥に思ひ出でゝ

〇加茂の臨時の祭が久しく絶えていたのを、今年再興することがあった時に、その日も雪が降ったので、かの西行が「うらがへすをみの衣」と詠んだ事を遥に思い出して。

いにしへの竹のうら葉にふりしゆきふたたびかへる世にこそありけれ
四二三 いにしへの竹のうら葉に降(ふり)し雪ふたたびかへる世に社(こそ)有(あり)けれ 文化十一年

□臨時祭は、光孝帝の時分ありしが、近頃まで絶えてありしなり。「古への竹のうら葉」、小忌衣のもやうに竹の丸などあるなり。夫にふりたる土御門院迄は大内裏なり。
西行のうたに「うらがへすをみの衣に似たる哉竹のうら(ママ)はにふれる白ゆき」。西行の竹は呉竹なり。竹䑓)の古へをよまれたるなり。今又其の時の様に又雪ふる故、再びかへるとつかふなり。
因に此の時赤尾可官、「空蝉の人こそ知らね我が大君神の願や聞こしめしけん」。

○臨時祭は、光孝帝の時分あったが、近頃まで絶えていたのである。「古への竹のうら葉」は、小忌衣の模様に竹の丸などがあるものだ。それに(雪が)降った土御門院迄は大内裏である。
西行のうたに「うらがへすをみの衣に似たる哉竹のうらばにふれる白ゆき」(がある)。西行の竹は呉竹である。竹台のいにしえを詠まれたのである。今又その時の様に又雪が降るので「再び返る」と使ったのである。
ちなみにこの時の赤尾可官(の歌は)、「空蝉の人こそ知らね我が大君神の願や聞こしめしけん」。

※弥冨による底本では「小忌衣のもやうに竹の丸などあるなり夫にふりたる」に左傍点がある。
※「うらがへすをみのころもと見ゆるかなたけのうれはにふれるしらゆき」「山歌集」五三六。
※竹䑓 清涼殿の東庭にある呉竹・河竹を植えた台。石灰壇の前あたりに河竹の台、仁寿殿の西北に呉竹の台があった。(岩波古語辞典による)

211 鷹狩
ましらふのたか引きすゑて武士のかりにと出づる冬はきにけり
四二四 真白斑(ましらふ)の鷹ひきすゑてもののふの狩にと出(いづ)る冬は来にけり 文化六年

□昌言曰、大人わかきときのうたなり。此の集の成(る)三十年以前大人自ら言ふ。若し集にでもせば、此れは入れたきなりと申されたる由を清樹聞き覚え居たり。集なりし時清樹が「とうとう御入れなされたり」と申したりしに、大人は以前申されたる事は不覚となり。おもしろきことなり。
「真白斑」、白に黒き「ふ」あるなり。引きすゑ綱ある処、何となくにほふなり。又引れ出る意、語勢にあらはるるなり。ここの歌の調、武士のけしき。可考、後に「かり衣の遠山すり」とは大に勢(ひ)が違ふなり。

○昌言の言うには、「大人が若い時の歌である。この集の成る三十年以前に大人自らそう言った。もし集にでもする時は、これは入れたいと申された由を清樹が聞き覚えて居た。集ができた時清樹が「とうとう御入れなさった」と申し上げたところ、大人は以前申された事はおぼえていないということであった。おもしろいことである。
「真白斑」は、白に黒い「ふ」があるのだ。引き据え綱のある処が、何となくにおう(イメージできる)のである。また、引かれて出るという意味が、語勢にあらわれているのである。ここの歌の調は、武士の景色(を伝えるものである)。可考が後に「かり衣の遠山すり」を言ったのとは、大きく勢いが違うのである。

※「昌言曰」以下の前半部分は、弟子の昌言の言葉。「真白斑白に黒きふあるなり」以下が景樹の言だろう。この歌、景樹の万葉調の作品中では著名なもの。

秋谷豊の詩「背嚢」を読む

2017年06月03日 | 現代詩 戦後の詩

背嚢  秋谷 豊   『降誕祭前夜』(昭和三十七年十一月 地球社刊)より

おれのなかには夜がいつぱいだ
けれど おれを重くするのは夜ではない

おれが見知らぬ兵隊の背中で
ゆらゆらとねむりながら
波の上をわたつてきたのは夜の間だ
鉛のように
それが原野へつづいているなら
おれもそこへ行こう?
戦争はおれを熱い薬盒にする
唾液に
飢え
渇き
倒れていつただれかれの顔を
おれは逆光の中にまざまざと見るが
それはなんという大きな落日だつたろう

おれはれおれの中の夜を圧し殺す
けれど おれを暗くするのは夜ではない

兵隊が死ぬまで支えていたのは
銃であつた
兵隊は銃のために死ぬ
銃ににぶくほりつけてある
紋章のために死ぬ
兵隊は固いぺトンでつくられたもの
夜を夜と考えることのできぬ
沈黙のぺトンだ

おれと夜の間を長い長い軍列が流れてゆく
そいつは煉獄のはてから来た
だが おれを撃ち苦しめるものを
おれはキリストのように
背負うことはできないのだ 

 この詩の作者は、戦争からの帰還者である。
「あとがき」には、
「ぼくは自分の底に流れている戦争の体験を、いまも消し去ることができないでいる。戦争はわれわれにとって過ぎ去った暗黒の時間ではない。今日の崩壊しつつある人間性の危機は、ここから「神」が狂っていった二十年前のあの渦の中に再びわれわれをまきこもうとする。」
とある。

 詩の全体は、五つの連に分れている。タイトルが「背嚢」となっているから、「おれのなかには夜がいつぱいだ」という言葉を読んだ時に、読者は背嚢を語り手としてまずこの詩を読み始める。けれども、この重たい言葉の響きからただちに感じることは、「背嚢」である「おれ」が、まちがいなく作者自身の実感を担ったものだということだ。
 ここに二行目の「けれど おれを重くするのは夜ではない」という詩句が重ねられる時、では何が「おれ」を重くするのだろうか?という問いを読者は抱え持つことになる。そうして以下の詩句を続けて読む時に、その答は与えられるのか。

 二連目前半。「おれが見知らぬ兵隊の背中で/ゆらゆらとねむりながら/
波の上をわたつてきたのは夜の間だ/鉛のように/それが原野へつづいているなら/おれもそこへ行こう?」

 潜水艦の攻撃や空襲を避けて、輸送船はなるたけ夜間に移動するということがあるだろう。そうして夜のうちに「原野」のある南方の戦線のどこかに兵隊とともに上陸した。ここには作者自身のそうした暗闇の記憶が書かれている。この詩の「それが原野へつづいているなら」の「それ」とは、背嚢の中にある「夜」のことだろう。鉛のような夜。ハンス・ヘニー・ヤーンの小説に『鉛の夜』というタイトルがあった。鉛のような夜は、戦争の時代のわかりやすい比喩である。「おれもそこへ行こう?」と疑問のかたちになっているのは、行って原野の夜に溶け込むことなどできはしないからだ。

 二連目後半。「戦争はおれを熱い薬盒にする/唾液に/飢え/渇き/倒れていつただれかれの顔を/おれは逆光の中にまざまざと見るが/それはなんという大きな落日だつたろう」

 南方戦線では、戦死者の大半が餓死であった。飢えと渇きの中で倒れて行った兵隊たちを、「背嚢」は見ていた。生還した兵士である「私」の背中で。戦場において、「背嚢」は熱い「薬盒」となった。
「大きな落日」というのは、戦争の敗北、敗走の現実そのもののことでもあるだろうし、また実際に赤々とした夕陽を目にもしたのであろう。
 一連目の「けれど おれを重くするのは夜ではない」という句の「重くするもの」の当体は、飢えと渇きにさいなまれた戦争体験の総体ということになるだろう。また、そうは言っても「重くするもの」のすべてをここで説明し尽くしているわけではないのだ。それが「あとがき」で作者がこの詩集において「神」を問題にしていると書いた理由ともつながって来るのだろう。

 三連目。「おれはれおれの中の夜を圧し殺す/けれど おれを暗くするのは夜ではない」。
ここに来て、「背嚢」は自分の中の「夜」を押し殺してしまった。それなのに、相変わらず「おれ」は「暗く」されている。そうして「おれを重くするのは夜ではない」という冒頭の一連の言葉も生きている。さらに、「おれを暗くするのは夜ではない」という句が付け加わった。

 四連目。「兵隊が死ぬまで支えていたのは/銃であつた/兵隊は銃のために死ぬ/銃ににぶくほりつけてある/紋章のために死ぬ/兵隊は固いぺトンでつくられたもの/夜を夜と考えることのできぬ/沈黙のぺトンだ」

 ここでは「背嚢」がものを感じたり、考えたりすることができるのであって、兵隊にはそれが許されていない。兵隊は「固いぺトン(「べトン」はフランス語でコンクリートのこと)」であり、銃のために、銃に彫り付けられている菊の紋章のために(天皇と大日本帝国のために)死ぬのだ。兵隊には「夜を夜と考えること」が許されていない。夜とは何か。戦争の現実を支えるまっくらな塊のようなもの。戦争そのもの。


 五連目。「おれと夜の間を長い長い軍列が流れてゆく/そいつは煉獄のはてから来た/だが おれを撃ち苦しめるものを/おれはキリストのように/背負うことはできないのだ」

ここでも「背嚢」は、外側にある「夜」と自身を一体化しない。「おれと夜の間」には、「長い長い軍列」が「流れてゆく」のだ。それは地獄、ダンテが描いたような「煉獄のはて」からやって来た。圧倒的に強固な戦争という「軍列」が隔てるために、「おれ」は「おれ」自身であり、「おれ」の荷物でもある「背嚢」を、仮に言ってみるなら<罪>というものを、「夜」そのものに預けてしまうことはできない。しかしながら、その背負いきれないものをキリストのように「背負う」ことも、またできないのだ。

「おれ」は「おれを撃ち苦しめるものを」背負うことも、周囲の「夜」に一体化させることもできないまま、「撃」たれ、「苦し」んでいる。銃弾に撃ち抜かれた背嚢。背負いきれない思いだけが、ここに厳然として残り、「おれのなかには夜がいつぱいだ/けれど おれを重くするのは夜ではない」という根源的なアイロニーだけが、かろうじてよじれる言葉としてここに投げ出され続けるのだ。