さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

大谷ゆかり『ホラインズン』寸感

2017年06月14日 | 現代短歌
 歌集から三首引く。 

  祖母の茗荷まんじゅう積み上がり一気に青の濃くなりし夏
  
 ※「祖母」に「おおはは」と振り仮名

  帰りたる夫の足音 庭草がそろそろ夜露を集めはじめる

  海を見にゆきなさいなと夢のなか凹む私に母が微笑む

肉親を詠んだ歌を三首引いてみたが、悪びれないというか、素直な歌い方で読みやすい。「一気に青の濃くなりし」というような、柄の大きい言葉の使い方も説得力がある。

  幾万のチューリップから天空へ立ち昇り鳴る春の本鈴

こういう歌がたくさんあり、決して平凡な見立てではないから、テンポをもって読める。少し分析してみる。

  三月の四角い皿におっとりとバナナの皮がヨガのポーズす

  ひといきに雲を脱ぎたる青空のはだかんぼうの明るさを見よ

  たんぽぽの絮の舞い込む一両目うっかり春の容れ物になる

 「春の容れ物」という一連から続けて引いた。一首目、三月と来ると坪内捻典の俳句が下敷きなのだろう。二首目、「雲を脱ぎたる青空のはだかんぼう」という擬人法は通俗すれすれである。三首目、「うっかり春の容れ物になる」というのは見立てで、これも前二首と同様のところがある。わるい歌ではないのだが、一首のなかで問答をした時に少し答えが早い気がする。

  伝えたきことを整え真夜中の青き湯舟をえいっと降りん

  わが犬の鼻腔に白き雲垂れて墨絵のようなCТ画像

 ここに引いたような、自分自身の動作や、日常のある局面をきちんと見てとらえた歌はどれも良い。むろん自分の住んでいる伊勢市のことを詠んだ歌もいい。「えいっと降りん」というような、自分の行為をおおづかみに把握する言葉の持って行き方は独特で、あまり小さくまとまってほしくない作者である。

糸川雅子『詩歌の淵源 「明星」の時代』に関連して

2017年06月14日 | 近代短歌
 四・五十代以上の人間が与謝野晶子の歌を読むとしたら、どこが入り口になるだろうかと考えると、まずそれは『みだれ髪』ではない。ところが与謝野晶子に関心を持つ人は、たいてい若い頃の晶子について読んだり書いたりするのに労力をとられてしまうから、よほど晶子にこだわる人以外は、だいたい大正から昭和にかけての歌に関しては、選抄ですませるということになってしまうのではないかと思う。この流れを変える必要がある。

 やはりそうかと、あらためて思ったのが、本書の末尾にある次の文章である。

 「自我の詩」をもとめて出発した「明星」であった。その「明星」の申し子のような与謝野晶子が、自身の晩年において、世界に対して自己を突出させるのではなく、景のなかに自己の心情を融け込ませようとする境地で作品を多く残していることについて、そこに重ねられたであろうひとりの歌人としての晶子の時間の重さを感じ、同時にまた、明治、大正、昭和と流れた近代短歌の時間をも思わせられるのである。 
    (一八三ページ)

 この言葉を出発点として、著者には後期の晶子の歌についても何か書いてもらいたいと思ったことである。その際にはぜひ、晶子の高弟というか実質的な同伴者と言った方がいい平野萬里の仕事についても、あわせて書いてもらえるとありがたい。
 
 晶子が亡くなったあと、戦時中に平野萬里が出した追悼の選歌集があるのだが、私はこれによって晩年の晶子の歌に対する目を開かれた。また与謝野晶子という歌人に対する深い敬意を抱くようにもなった。

 私は本書のなかでは、若書きの茂吉の「塩原行」の歌と五十代の晶子の歌とを比較した<『心の遠景』の「旅の歌」>という論文にもっとも興味を覚えた。だから、念のためにことわっておくと、この一文は本書の書評ではない。

 最初の問いにもどると、五十代の人間が晶子に接近するとしたら、若者(わかもの)には縁遠い『心の遠景』の「旅の歌」や、『白桜集』などがいいのだろうし、何と言っても平野萬里の選歌集がいいと私は思うのである。あれは岩波文庫あたりで再刊してもらいたい。