さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

石原秀樹歌集『自転車を漕ぐ』

2017年06月28日 | 現代短歌 文学 文化
先日、平塚の公園で竹の花が咲いたという記事を新聞にみつけて、思いは千々に乱れたのである。竹の花が咲くのは千年に一度、というのは誇張だろうが、それぐらいめずらしいことである。石原秀樹の歌集が出たのを手元に置いたまま半年もたってしまったのを、そう言えば何か書こうと思っていたのだったと、竹の花の記事から記憶を辿り直すような歌は、たしかにあった。

  隠り世に差す光あらばやはらかき金環食の影のごときか

 これは実際に日食の時に詠まれた歌だ。一首前に「金環食メガネ」という言葉の出て来る歌がある。「竹取物語」に取材した一連も好ましいものだった。

  罪を得て翁おうなと住むといふ辺境の地の日ごろ月ごろ

  もと光る竹こそあらねうつしみの翁おうなが月を見ている

  みやつこの屋敷の門は閉ざされて泣きゐるぼくを抱へたる女

  千年を泣きゐるやうなわたくしが閉ざされし門のむかうにもゐる

  忘れえぬ物語なり挿し絵には高窓ありてひかり漏れ入る

  常闇の一夜を限り咲くといふ花のかをりを待ちて千年

 一首目は月の住人だった姫君のことだが、二首目は、自分のことになっている。三首目以下で幼時の記憶をよみがえらせて、記憶の中の「竹取物語」の絵本の月光を思い起こし、千年に一度咲くという花の香りを思う歌へとつなげてゆく。巧みな人生についての詠懐である。
 短歌の世界には、凹凸で言うと凹(へこ)んだ言葉を専ら得意とするタイプの歌人がいて、世間の人が凸型の「自己表現」を気にしている時に、誰にも知られずにひっそりと庭隅の花を育てていたりするのだが、石原秀樹もそのタイプだろう。

  人遠し、思ひつたなし炎天の街中をいつも独り歩き

 この感じ方は、わかる気がする。作者がどういう生き方をしているかも、伝わってくる。作者の仕事は学校の教師であるが、一冊の中にはいくつかの違った職場での経験に基づくらしい歌を散見する。それがどれも自分の生き方の重心の低い所から出た言葉でうたわれているのだ。

  闇について問ひし子のあり大人しき十七歳を受け持ちにけり

  抱きゐる闇、たもつべき花ありと傍らに立つ教ヘ子に伝ふ

  この子らの笑顔の際にふとよぎる暗きまなざしゆめ見逃さじ

  絶望が自転車を漕ぐやや遅れ希望が通る放課後の道

一、二首目。ここで「闇」というのは、人間の持つ悪意とか、ひとをいじめる気持とか、そういうものの喩だろう。具体的な事は捨象されているけれども、何気ない表情でそういうことを話題にできる先生、でもあるのだろう。作り笑いを浮かべて変なことを言ったりはしない。三、四首目は、いろいろな困難を抱えている子供たちが集まっている職場に勤務している時の歌か。四首目も同じ一連の歌で、集題ともなっている。この感じは、わかる人にしかわからないだろうと思うが、つまり「絶望が自転車を漕ぐ」と言いたいぐらいに心がふさいでいる瞬間があるのだ。希望は「やや遅れ」る。

  五円玉落とす神あり雑踏に拾ひもて来るちひさこの神

  はろばろと泥田に出でてあたたかし歩めば尻にはねたる温み

  うなさかを渡つて来たるものおもひ 吾れ眼を挙ぐる泥田にありて

  神の庭ガラクタ市のにぎはひに恋をあきなふもの、零落す

作者は、師の藤井常世を介して釈迢空の作品世界や思想ともつながりを感じている。「ちひさこの神」にたとえられたのは、たぶん親しい近親の子だろう。孫という言葉はこの歌集には出て来ず、そういう自制は徹底している。私生活の具体的な断片はいったん抽象化されてから歌になるのである。四首目は、現代神道批判。作者は國學院で藤井貞文の講義を聴いたと後記にある。