さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

三木卓の本に引かれた大岡信の詩「春のために」 改稿

2017年06月11日 | 現代詩 戦後の詩
大岡信がなくなって、ひとつ思い出したのは、三木卓の『わが青春の詩人たち』という2002年刊の本に大岡信について書かれたくだりがあったことだ。そこに引かれていた詩を、ここに孫引きしてみよう。
 
  春のために     大岡 信

砂浜にまどろむ春を掘りおこし
おまえはそれで髪を飾る おまえは笑う
波紋のように空に散る笑いの泡立ち
海は静かに草の陽を温めている

おまえの手をぼくの手に
おまえのつぶてをぼくの空に ああ
今日の空の底を流れる花びらの影

ぼくらの腕に萌え出る新芽
ぼくらの視野の中心に
しぶきをあげて回転する金の太陽

ぼくら 湖であり樹木であり
芝生の上の木漏れ日であり
木漏れ日のおどるお前の髪の段丘である
ぼくら

新しい風の中でドアが開かれ
緑の影とぼくらとを呼ぶ夥しい手
道は柔らかい地の肌の上になまなましく
泉の中でおまえの腕は輝いている
そしてぼくらの睫毛の下には陽を浴びて
静かに成熟しはじめる
海と果実

 一応、註してみる。 
一連目、三行目、これは「古今集」の歌を踏まえている。
二連目、三行目、これは三好達治の詩を踏まえている。
三連目、三行目、ランボーの詩への連想をさそう。
四連目、三行目、『月下の一群』でもいいし、「フランシス・ジャム詩集」でもいいが、要するに「木漏れ日のおどるお前の髪の段丘」というのは、翻訳詩の文脈の中の詩句である。
五連目、三、四行目、エリュアールの詩のような感じがする。

 嶋岡晨の訳で引いてみる。

「絶えない歌」(一九四六年)

なにものもかき乱すことはできない
ぼく自身にほかならぬ 光りの秩序を
そしてぼくの愛するもの
テーブルの上の
水をみたしたポット 休息のパン
すみきった水でおおわれた手につづき
おごつた手にはおきまりのパンにつづく
一日の二つの斜面は
新鮮な水と熱いパン

(略)

だがぼくらのなかで
燃える肉体から暁が生まれる
そしてきっかりと
ただしい位置に大地を置く
しずかな歩みでぼくらは前進する
自然はぼくらに敬礼し
日はぼくらの色彩に肉体を与え
火はぼくらの瞳に 海はぼくらの結合に肉体を与える
     『エリュアール詩集』(飯塚書店世界現代詩集Ⅹ)
     1970年刊より

ここで、「道は柔らかい地の肌の上になまなましく/泉の中でおまえの腕は輝いている」という詩句を読んでいるうちに、何て精巧な完璧な模造品であることよ、という思いが突き上げて来て、私は思わず激してしまったのだった。近代詩以来、ずっと日本の詩はこういう西欧詩の翻案を繰り返して来た。これは極めて人工的な、架空の青春、血の通っていない生への賛歌ではないのか。

これは私の青春嫌悪、青春憎悪がなさしめる言葉であろうか。そうではなくて、この翻訳調の詩語に魅惑された世代の言語感覚というものに、根本的な疑義を抱くということを言いたいのである。むろん私にも、大岡信には、心を惹かれる詩がいくつもある。しかし、この詩に限ってみるなら、こういう戦後の青春を神話化したような詩は、再び回帰したモダニズムを肯定する心性を無根拠に押し出したもののようにしか見えないのである。同じエリュアールに示唆されるのにしても、田村隆一などの行き方とはまったく別物ではないか。

一九五六年刊の詩集だから、ずいぶん昔のことになる。平成もあと数年という時代に入って、「そしてぼくらの睫毛の下には陽を浴びて/静かに成熟しはじめる/海と果実」という詩句との不思議なほどの感覚の落差というものに、私はめまいがするような気がする。どうして何の反語もなく「静かに成熟しはじめる」という言葉を書くことができたのだろう。

こうした詩を書いた人が『折々の歌』を書き、連詩にこだわったということのなかには、余人のうががい知れぬ自分自身の詩的出自というものへの持続的な反問というものがあったはずである。それは、翻訳文学から出発した「現代詩」というものへの問いでもあったのだと私は思う。

追記 このあと「ユリイカ」の大岡信追悼号を読んだ。この詩にも見えるようなきらきらした恋愛詩を作者はずっと続けて作っていき、大成させた人だということがわかった。ここに引いた詩の頃はいささか器用で秀才的なエリュアールの翻案のような詩を作っていたわけである。誰でも初期というのはそのようなものだ。「ユリイカ」特集の恋愛詩のすぐれた作者としての大岡信という全体的な取り上げ方は、とてもいいと思う。

『桂園一枝講義』口訳 224-232

2017年06月11日 | 桂園一枝講義口訳
224 歳暮
あらたまの年のうちにもうぐひすの初音ばかりの春はきにけり
四三七 あら玉のとしの内にも鶯のはつねばかりの春は来にけり

□岡崎などの実景なり。反て春は聞えぬ時あるなり。年内立春也。題はわけずあれども、年内立春の体なり。最初はあらたまの年の内よりとなり。後あらためし。

○岡崎などの実景である。かえって春は聞えない時がある。年内立春である。題では分けていないけれども、年内立春の体である。最初は「あらたまの年の内より」となっていた。後に改めた。

225
徒にあかしくらして人なみのとしのくれともおもひけるかな
四三八 いたづらに明(あか)しくらして人なみの年の暮とも思ひけるかな 享和二年

□此れは、津の国中村に居たりし年に、二時百首を詠じたる中の歌なり。千蔭、春海が「筆のさが」は、此の二時百首の中より十八首出したり。いよいよおとなげなかりし。毎日梁岳法師と赤尾可官と三人、ものよみしたりしなり。巳刻よりして人々講釈によるなり。其の人々のよるまでに二時の間によみたりしなり。赤尾七十首、梁岳六十首出来たり。此の三つをよせて□□(二字欠字)とせり。

○これは、津の国中村に居た年に、二時百首を詠じた中の歌である。千蔭、春海の「筆のさが」は、この二時百首の中から十八首を出した(批判書である)。(だから)いよいよ大人げない所為であった。毎日、梁岳法師と赤尾可官と三人で、歌を詠んだのである。巳刻から人々が講釈に集まる。その人々が集まるまでに、二時の間に詠みおおせたものだ。赤尾が七十首、梁岳が六十首出来た。この三つをよせて□□(二字欠字)とした。

※有名な「筆のさが」一件については、景樹関係の諸書に必ず出て来るので特に注記しない。

226 
年の緒もかぎりなればやしら玉のあられみだれて物ぞかなしき
四三九 年の緒もかぎりなればやしら玉のあられみだれて物ぞ悲しき 文化二年

□「年の緒」すべて連続して長きものを「を」と和語に云ふなり。年も連続してつづくものなり。「みだれて」「かなしき」と云ふやうにつづけるなり。玉は穴あり。数珠の如く緒を通しておくなり。其きれたる所よりしてみだるるなり。此歌、歳暮のもの悲しきことを云ふなり。
門人云、此歌大人自得の歌なり。

○「年の緒」は、すべて連続して長いものを「を」と和語に言うのである。年も連続してつづくものだ。「みだれて」「かなしき」というように続けるのである。「玉」は穴がある。数珠のように緒を通しておくのだ。その切れた所から乱れるのである。この歌は、歳暮のもの悲しきことを言ったのである。
門人の言うには、この歌は、大人の自得の歌である。

※「門人云」は後の書き込み。

227 雪中歳暮
白ゆきのふる大空をながめつゝかくて今年もくれなんがうさ
四四〇 しら雪の降(ふる)大空をながめつゝかくてことしもくれなむがうさ

□ありのまゝなり。此のやうに雪のしきりにふる頃が歳暮なり。
降を打ちまもりて見るを、直に「ながめ」にかけるなり。物思ひつゝと云ふ意になしてみるべし。「くれなんがうさ」、くるゝぞ、ういと云ふを云ふなり。

○ありのままである。このように雪のしきりにふる頃が歳暮である。
(雪が)降るのをじっと見守るように見るということを、直に「ながめ」にかけているのだ。物を思いながら、という意味になしてみるとよい。「くれなんがうさ」は、暮れるぞ、憂い、という(心事)を言うのである。

228
明日からはふるとも春のものなればことしのゆきのつもる也けり
四四一 明日からはふるとも春のものなればことしの雪の積る也(なり)けり

□大年に大雪降しけしきなり。冬の雪があたりまへなり。それ故に春の領内ではなきなり。冬のうちにふりておかうとて、つもるなりと云ふなり。

○大晦日に大雪が降った景色である。冬の雪(の方)が当り前である。だから春の季節のうちではないのである。冬のうちに降っておこうといって、積もるのだ、というのである。

229 歳暮近
限あれば我が世もちかくなるものをとしのみはてと思ひけるかな
四四二 限(かぎ)りあればわが世も近くなる物を年のみはてと思ひけるかな

□五十余の時のうたなり。
○五十余歳の時の歌である。

230 都歳暮
百式の大宮びともいとまなきとしのをはりになりにけるかな
四四三 もゝしきのおほみやびともいとまなき年のをはりに成(なり)にける哉 文政五年

□憶良の「大宮人はいとまあれや」より取て来たる也。憶良の家に中将が少将があつまりたるなり。扨々大宮の御方には富貴にしてひまあるなり。この方貧乏のものは中々かなはぬことなり。梅をかざして元日めでたくも御出なりと云ふ事なり。此れを「新古今」に直してとんと聞えぬことにしたり。定家郷(※当て字)などのあやまりなるべし。「桜かざしてけふもくらしつ」としたり。とんととんと合はぬなり。上の句下の句、自他たがへり。「あれや」は、他を推量するなり。「今日もくらしつ」は、自らくらすなり。此でちがふなり。

○憶良の「大宮人はいとまあれや」から取って来たのである。憶良の家に中将が少将が集まったのだ。さてさて大宮の御方には、富貴でひまがあることである。私らのような貧乏人には、なかなか適わないことである。梅をかざして元日めでたくも御出になったという事である。これを「新古今」で直してとんと意味不明の歌にしてしまったのである。定家卿などのあやまりであろう。「桜かざしてけふもくらしつ」としてしまった。まったく少しも合わないのだ。上の句下の句、自他くいちがっている。「あれや」は、他を推量するのである。「今日もくらしつ」は、自身が暮らすのである。これでくいちがうのである。

※景樹は「憶良」と言っているが、赤人のかんちがい。「和漢朗詠集」に赤人の名で所収。私が注意したいのは、「古今和歌六帖」にもあることで、景樹の「講義」で口をついて出て来る「万葉」歌がほとんど「古今和歌六帖」にあるものだということだ。

※元は「万葉集」巻十の作者不明歌。「ももしきの-おほみやひとは-いとまあれや-うめをかざして-ここにつどへる」一八八七(一八八三)。しかし、ここには例によって景樹のテキスト考証力の一端が示されている。「ももしきの大宮人はいとまあれや桜かざしてけふもくらしつ 赤人」「新古今和歌集」一〇四。ここで「赤人」とあるのは平安時代以来の誤伝を踏襲したもの。

231 山家歳暮
うぐひすのこゑより外に山里はいそぐものなき年のくれかな
四四四 鶯の聲より外に山里はいそぐ物なきとしのくれかな 享和三年

□いそぐ、元来用意するなり。春のいそぎをするなり。春のためにいそぐことなり。一つ越えたる語なり。春のためにいそぐ用意なり。それ故いそぎをするといへば用意することなり。世上ではいろいろ用意して春いそぎをするなり。山家は用意なく、今日中にせねばならぬなどとすることはなきなり。

○「いそぐ」は、元来用意をする、の意味である。春のいそぎ(用意)をするのである。春のためにいそぐことだ。一つ(冬の季節を)越えた言葉だ。春のためにいそぐ用意である。それだから、「いそぎをする」といえば、用意をすることである。市中ではいろいろと用意をして春の支度とするのである。山家はそんな用意もなく、今日中にしなければならない、などというような用事はないのである。

232 老後歳暮
なれなれて年のくれともおどろかぬ老のはてこそあはれなりけり
四四五 なれなれてとしの暮とも驚かぬ老のはてこそあはれなりけれ

□老いて見ればよくわかるなり。おいては頓とかなしからぬなり。年のくれのつらさは、三十五、六より四十にては大に覚ゆるなり。五十、六十彌かなしきなり。

○老いて見るとよくわかることだ。(ある程度まで)年をとってしまうと(数え年での加齢の近づく年の暮れといっても)ちっとも悲しくはないのである。年の暮れのつらさは、三十五、六から四十歳頃の年齢ではずいぶん感ずることだ。五十、六十となるといよいよ悲しいのである。

※結句「けり」はテキストのままでおそらく誤記。
※以上で春歌、夏歌、秋歌、冬歌の部の講義を終わる。秋歌の後半から冬歌の前半が欠けてしまっており、特に冬歌の前半には名歌が多いので残念。


『桂園一枝講義』口訳 212-223

2017年06月11日 | 桂園一枝講義口訳
212
野に山にかなしき鳥のこゑすなりかり人いまやたかはなちけん
四二五 野に山に悲しき鳥の声すなり狩人(かりびと)いまや鷹放(はな)ちけむ 文化四年

□鷹の羽風を聞くや否や、鳥の声は常の声をえ出さぬなり。さらばよ「かなしきこゑ」が聞ゆるなり。鳥の声を思ひやるうたなり。
○鷹の羽風を聞くや否や、鳥の声は常の声を出すことができない状態になるのである。そうであるから、「かなしき声」が聞えるのであるよ。鳥の声を思いやる歌である。

213 雨中鷹狩
すらせたるはつかり衣のとほ山もしぐれの雨にいろづきにけり
四二六 すらせたる初かり衣(ぎぬ)の遠山もしぐれの雨に色付(いろづき)にけり 享和元年

□「かりぎぬ」、露あるは、しぼるなり。遠山すり、白に青にて小き遠山を書くなり。「はつかりぎぬ」、「かりぎぬ」に初とは言はれぬなり。はじめての狩にかけてきるなり。衣はふるくても初狩にきる時は、初狩り衣なり。しかしながら、「すらせたる」の初五にて衣も新らしきこと知るべし。山を見れば紅葉もあり、かり衣遠山も色付たりとなり。

○「かりぎぬ」は、露があるのは、しぼるのである。「遠山すり」は、白地に青で小さい遠山を書いたものだ。「はつかりぎぬ」は、「かりぎぬ」に「初」とは(通常は)言われないのである。はじめての狩に掛けて着るのである。衣は古くても、初狩に着る時は「初狩り衣」である。しかしながら、「すらせたる」の初五から衣も新らしいことがわかるだろう。山を見れば紅葉もあり、「かり衣」の「遠山」も色付いたというのである。

※旺文社『古語辞典』「しぼる」引例に「とがむなよ忍びにしぼる手もたゆみ今日あらはるる袖のしづくを」「源氏物語」藤裏葉。

214 炭竈
比えのねに初ゆきふれり今よりや小野の炭がまたきまさるらん
四二七 比えの根に初雪ふれり今よりや小野の炭がまたき増(まさ)るらむ 文化十五年

□都より思ひやるなり。雪を見るよりして炭がまを思ひやるなり。
○都から思いやっているのである。雪を見たところから炭がまを思いやるのである。

215 閑居埋火
底ぬるき火桶ばかりを友としてくらす老ともなりにけるかな
四二八 底ぬるき火桶ばかりを友としてくらす老ともなりにけるかな 文化十四年

□此の歌を草津の某妻のきい子が云、近辺の百姓が聞きて大に感心したり。且又百姓が云ふに、「底ぬるき」と云ふことがないと、何でもなき歌なるべし、と云ひたるよし。一向歌など知らぬ人の所望と見えたり。

○この歌を草津の某の妻のきい子が言うには、近辺の百姓が(これを)聞いて大いに感心した。そうしてまた(その)百姓が、「底ぬるき」という語がないと何でもない普通の歌になってしまうだろう、と言ったということだ。まったく歌など知らない人の所望と見えた。

※「所望」とあるのは、色紙のことだろう。景樹の重要な生計の手段のひとつ。

216 炉辺閑談
埋火のにほふあたりはのどかにてむかしがたりも春めきにけり
四二九 うづみ火のにほふあたりは長閑(のどか)にて昔がたりも春めきにけり 文化十三年

□「にほふあたりはのどかにて」、凡調なり。
○「にほふあたりはのどかにて」が、凡調である。

217 題知らず
埋火のほかにこゝろはなけれどもむかへば見ゆる白鳥のやま
四三〇 うづみ火の外(ほか)に心はなけれどもむかへば見ゆるしら鳥の山 文化十二年

□ 一寸聞えぬ歌なり。これは、後に「事にふれ云々」の歌、一向打まかせなり。此の歌など歌の本根(ほんこん)はこゝなりと云ふ意味なり。「事にふれて」の歌は、中芝居なり。本集中、「題知らず」などは、姿も詞も大芝居なる也。此の譯をみるべし。此れは、一月楼にありし時よみたり。白鳥山はきらゝの山也。白く見えたるはげ山なり。火にあたると、山がいつでもみゆるなり。心ざす所は火なるに、白鳥山が見えるなり。故に「むかふ」。

○ちょっとわかりにくい歌だ。この後に(ある)「事にふれ折にふれたる」の歌は、まったく「打まかせ」でできたものである。(それに対して)この歌など、歌の根本はここだという意味(の歌)である。「事にふれて」の歌は中芝居だ。本集中、「題知らず」などは姿も詞も大芝居であるのだ。この譯(深いわけ)を知る必要がある。これは一月楼にいた時に詠んだ。白鳥山はきららの山である。白く見えているはげ山である。火に当たると、山がいつでも見えるのである。故に「むかふ」(と言った)。

※一月楼は景樹の居所の雅名。この歌は、比叡山の山景を詠んで桂園の神髄を示したものとして称揚されてきた。
※岩波の旧古典文学大系本の『近世和歌集』の頭注で「桂園一枝講義」本文の一部をみて、いま一つわからなかったというのがこの現代語訳をてがけたきっかけである。その時は「姿も詞も大芝居なる也」の「大芝居」という言葉が、ずいぶん奇異に感じられたのだった。これは童蒙の意識をもって子息や無学な弟子にもわかりいいように、平易な比喩を用いて説明したものである。また、景樹自身が「題知らず」の歌を重視していたということが、これからわかる。

218 神楽
はふり子がとる榊葉に月よみのみかげもしろしふけぬ此の夜は
四三一 はふり子がとる榊葉(さかきば)に月よみのみかげも白し更(ふけ)ぬ此(この)夜は 享和元年

□「はふり子」、今の「はふり」なり。神主禰宜なり。
神楽の歌は、いやしくならぬ様上品によむべし。
月よみは、月と云ふ事なり。今云へば一の神の名の様になる也。月と云ふことなり。「榊葉」、うら葉は常盤なるもの故に白きなり。
「ふけぬ此夜」は、更けた此夜と云ふことではなきなり。更けたわい、此夜は、と二つに切りて見るべし。

○「はふり子」は、今の「はふり」だ。神主・禰宜(のこと)である。
神楽の歌は、いやしくならない様に上品に詠まなければならない。
月よみは、月という事である。今言うと一の神(ツクヨミノミコト)の名の様になるのである。月ということである。「榊葉」、(その)うら葉は恒常のものであるから白いのである。
「ふけぬ此夜」は、「更けた今夜」ということではないのだ。更けたわい、今夜は、と二つに切って見るとよい。

219 五節舞姫
天つ袖かへし玉ひし大君のをとめのすがた今も見えつゝ
四三二 天津(あまつ)袖かへしたまひし大君のをとめの姿いまも見えつゝ 文化十年

□ 此の五節舞姫、聖武天皇吉野にて始めて遊されしが濫觴なり。五節は、五曲の名なり。曲の名なり。「左伝」にあり。畢竟は節をうつの舞なり。元来五節の始めは舒明天皇の時に礼楽なくしては天下治らずとて、楽を制し、礼を制するなり。礼は百官事を取るなり。楽は舒明天皇御舞あらせられたる也。舒明は女帝なり。尤も舒明の太子時分なり。舒明天皇の御袖をかへし舞はせられしなり。

○この五節舞姫は、聖武天皇が吉野で始めてとり行われたのが濫觴である。五節は、五曲の名である。曲の名だ。「左伝」にある。畢竟は節を打ってする舞である。元来五節の始めは、舒明天皇の時に礼楽なくしては天下治らずとして、楽を制定し、礼を制定したものである。礼は百官が事務を取ることだ。楽は舒明天皇が舞わせられたものである。舒明天皇は女帝である。もっとも舒明の太子(即位する前)の時分である。舒明天皇が御袖をかえして舞わせられたのである。

220 
雲の上はゆきをめぐらす冬ながらそのふる袖は花の香ぞする
四三三 雲の上は雪をめぐ(廻)らす冬ながらそ(其)のふ(振)る袖は花の香ぞする 文化六年

□「雲の上は」、新嘗祭の庭の面は、雪をめぐらす冬なり。尤も舞の名に廻雪の舞あるなり。それをかけて云ふ。「花の香ぞする」、天人の姿花やかなるを云ふ。麗香四方に薫ずるの類なり。
「雪をめぐらす」、降らすなり。

○「雲の上は」、新嘗祭の庭の面は、雪をめぐらす冬である。もっとも舞の名に「廻雪の舞」がある。それを掛けて言う。「花の香ぞする」は、天人の姿の花やかなことを言う。麗香四方に薫ずる、の類である。
「雪をめぐらす」は、降らせるのである。

221 豊明節会
豊年のとよのあかりのまひの袖おもへば民をなづるなりけり
四三四 とよ年の豊のあかりの舞の袖おもへば民をなづるなりけり 文化十四年

□なほらひ、殿の節会なり。新嘗祭の翌日なり。夜明けて新嘗祭すむなり。すみたる御祝の節会なり。うちとけたる姿なり。此の時も舞があるなり。うちとけたる舞なり。
豊明といふことは、御酒宴といふ事なり。豊は大なるなり。たいまつをたきたて大酒宴あるなり。それが明なるなり。それ故豊明といふは、酒宴の名なり。

○「なほらひ」は、殿(しんがり)の節会である。新嘗祭の翌日である。夜が明けて新嘗祭がすむ。祭のすんだ御祝の節会である。うちとけた姿である。この時も舞があるのだ。うちとけた舞である。
「豊明」(とよのあかり)ということは、御酒宴という事である。豊は大きいことだ。たいまつをたいて大酒宴があるのだ。それが明るいのである。それで豊明というのは、酒宴の名なのである。

222 題知らず
鐘の音はきこえずながらももしきのにひなめまつりよはふけぬめり
四三五 鐘の音は聞えずながら百式(ももしき)の新(にひ)なめ祭夜は更(ふけ)ぬめり

□ここらは、詞を書けばおもしろきこと也。されども、かずならぬものが御所に出づるなどのことをいふは、反ておもしろからぬなり。
初は、大納言殿の御供にて出づべきにえ出でざりし時の歌なり。後のは、御供してつめて居たりし年の歌なり。尤も後の歌の方が前簾のうたなり。

○このあたりは、詞書を書けばおもしろいことである。けれども、数ならぬ(地下の)者が御所に出た時のことなどを言うのは、かえっておもしろからぬことだ。
最初の方の歌は、大納言殿の御供として出るはずのところが出なかった時の歌である。後の方の歌は、御供をして詰めて居た年の歌である。もっとも後の歌の方が前簾の歌である。

223
宮人のひかげのかづら長き夜もあけぬとみゆるくもの上かな
四三六 宮人の日影のかづら長き夜も明(あけ)ぬと見ゆる雲のうへかな 文化六年

□長閑なる夜でありしなり。五十年も以前なり。
○長閑なる夜であった。五十年も以前である。