さいかち亭雑記

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山川方夫の「海岸公園」

2016年05月03日 | 現代小説
 「毎日新聞」の「今週の本棚」書評欄に、中公文庫の『教科書名短篇 少年時代』が紹介されていた。安岡章太郎の「サアカスの馬」、山川方夫の「夏の葬列」、永井龍男「胡桃割り」などの題があがっている。なんという懐かしさだろう。中学校の教科書に載っていた「サアカスの馬」のおもしろさは、鮮明に覚えている。あの時の国語の先生の声まで浮かんで来るのだ。特に主人公のポケットの中身の描写が、おもしろかった覚えがある。安岡章太郎の主人公の情けない姿は、愚図・のろま・勉強不振といった、自分の駄目な部分についての劣等感や鬱屈を覚えている中学生の心を癒す作用があったのだろうと思う。

 それで、今日は倉庫のなかから山川方夫の「夏の葬列」を取り出して読んでみた。1991年刊(1997年第七刷)の集英社文庫版で、この本には昔の旺文社文庫のような年譜と解説がついており、代表的な作品のダイジェストとして、新しい読者を意識して編集されたものだったようだ。いま出ているかどうかは知らない。「夏の葬列」は、いかにも学校の教材向きという気がした。私が感心したのは、同書のいちばん最後に収録されている「海岸公園」という作品である。主人公の「私」は、八十九歳になる祖父を、その世話をしてくれるという祖父の妾の養子の家に預けようとするのだが、そのためには当時のお金で月々一万円を支払わなけれはならず、それに反対して一緒に住もうと主張する自分の母親とその祖父との間で骨肉の争いが起きてしまうのを、何とか収拾しなければならない立場に追い込まれる。この小説については、巻末の山崎行太郎のすぐれた解説がなされていた。「海岸公園」は一種の姥捨物語である、というのである。

「ここではじめて山川は、「家」への愛着を拒絶し、「家」からの解放と自立を決意する。(略)それが家族全員を、「家」という物語から救う唯一の方法だったからである。(略)それは生きるために、悪に手を染めることであった。」   山崎行太郎「解説」

 家族の問題というのは、一人一人が異なった困難な内容を抱えている。家族だから仲がいいとは限らない。家族だから相互に自由を尊重し合うことができるとは限らない。むしろ逆の場合が多いだろう。それに生活の面倒をみて、世話をする、介護するという義務が付随して来ると、さらに事態はのっぴきならないものになって来る。

 山川方夫のこの小説は、学校や読書サークルで家族や介護の問題を考えるための演習にも使えるかもしれない。ただし、こういう内容の小説を我慢して最後まで読める学生が何人いるだろうか、という問題はある。もっと短いもので内海隆一郎の短編などを使用した方がいいのかもしれない。内海の短編は、私は高校の教室で試してみたことがある。おすすめである。



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