休みの日は雑用をすることが多くなる。庭木の枝を切ったり、手つかずのままになっていた本の整理や片付けをしたりしているうちに、積み上げた本の中から掘り出し物を見つけたりする。それで、また拡げて読み始めた本のうちの一冊は、中津昌子さんの歌集だ。
短歌というのは、読んでいると、作品を介して、こちらの周囲の沈黙と作者の周囲の沈黙とが響き合うようなところがある。また、作品のなかにあって、うまく詩として掬い上げられた時間は、修辞の秀抜さや、選択された語構成の説得力の把持している質の高さのようなものに拠っているので、すぐれた作品ほどこちらの内側にある未知の感じかた、あるいは意識していなかった思考や感覚の使い方を認知させることができる。たとえば、
ベランダに一段下がって出るときに時間揺れたり若き母おり
という巻末の歌。ベランダに出たのは自分だけれども、その一瞬に、かつてベランダに出て洗濯物か何かを干そうとしていた母の姿が、記憶としてよみがえる。その母の姿は若い頃の母であり、自分もその時間に戻っている。四句目の「時間揺れたり」というのは、足が一段下に降りるときの身体感覚で、その揺れが記憶を現在の時間に一度に引き寄せて、ありありと若い母が自分のなかによみがえっているということなのだ。
鉢合わす牛車もなければぼうぼうとこのはつなつを立ち尽くしつつ
かなしみの噴き出すような白躑躅 口はつぐんでいなければならぬ
二首並んでいる。一首目はもちろん「源氏」の車争いを踏まえている。作者は京都の人だ。祇園祭では現実の牛車を見ることができる。
夏さえやがて枯れてゆくからマラカイトグリーンに光る爪を並べて
地響きのように花火の音がするビルの間を駆けぬけながら
だんだんにとうめいになってゆく父がながき手のばし夕刊を取る
激しすぎるものではないが、内側に抑えた情念をぐっと把持していて、それに対応する景色や事象をつかんだ時に、ぱっと手に取ってみせる。それが歌人だ。特に女性はそういうところが得意だ。「夏さえやがて枯れてゆくから」というのは、むろん自身の加齢を意識している。そこに「ビルの間を駆けぬけ」る「地響きのよう」な「花火の音が」聞こえる、というのは、存在の底に在るエロス的なもののほとばしりなのであって、そういう瞬時に自己を解放してくれる大きなものに、作者のこころは常にひらかれていると言ってよいだろう。
たぐり寄せる時間の帯はたわみつつ糸杉が風が光がちらばる
糸杉の花言葉は死 少年がかるがると朝の水たまり跳ぶ
これはローマのカラカラ浴場やポンペイの壁画を見たりする旅の一連にあるが、気づいてみると作品集の全篇に「時間」についての歌が散りばめられている。この少年は、現実の少年であるとともに西脇詩のなかにでてくるような小年でもあるのだ。
ねむれるだけねむりつづけて藻の色のふかみどりひく顔を起こせり
死者なれば憚ることなく名を呼ぶに木賊は青くかたまりて立つ
たいていの人間は、かなわぬ思いや果たせなかった願いを反芻しつつ、泥のように眠って後悔を忘れ、あらたに死者として目を覚ますというようなことを繰り返しているのだ、ということが、年をとるとわかってしまったりするので、私はこういう喪失感をのべた歌々に、いたく共感した。次に冴えた叙景の歌を引く。
橋脚はさびしきものか朝の陽が裾をひろげて流れてゆけり
徳利口のあたりにふわりと雲湧きぬ どこへでもゆけよおまへは好きに
擬人法はそうだと感じさせないぐらいの歌がよい。一首目は、光と影の映りかげんを絶妙にとらえている。二首目は熊野の旅の一連のなかにあるから、那智の滝の歌だろうと思うが、こういう外し方はなかなかない。
母の死の内側なのか 足垂らすちいさな流れに水がゆらめく
雪雲を吸い込む胸のひろやかにわたしのことはわたしがわすれる
こういう歌は絵のイメージがみえれば、それでよい。私は、流れにむかって足を垂らしているのは、「私」が付き添っている母であると解釈する。歌集の後半は特に、老いた父母の時間についての歌が増えて来る。あらためて歌集のタイトルである「記憶の椅子」という言葉に注意を向けてみると、椅子はそこにすわっていた人の時間の総体である、夫や友人や、とりわけて老いたる父と母の生活時間の総量を引き受けて、淡々とそこにある。だから椅子は時間の容れ物だ。「わたしのことはわたしがわすれる」という事は、裏を返せば私の記憶の中に残っているものを私は決して手放さない、ということでもあるのであって、そういうふうに読めるというほどに私も歳をとったのだ。人生は空しくもなくもなくもない。
短歌というのは、読んでいると、作品を介して、こちらの周囲の沈黙と作者の周囲の沈黙とが響き合うようなところがある。また、作品のなかにあって、うまく詩として掬い上げられた時間は、修辞の秀抜さや、選択された語構成の説得力の把持している質の高さのようなものに拠っているので、すぐれた作品ほどこちらの内側にある未知の感じかた、あるいは意識していなかった思考や感覚の使い方を認知させることができる。たとえば、
ベランダに一段下がって出るときに時間揺れたり若き母おり
という巻末の歌。ベランダに出たのは自分だけれども、その一瞬に、かつてベランダに出て洗濯物か何かを干そうとしていた母の姿が、記憶としてよみがえる。その母の姿は若い頃の母であり、自分もその時間に戻っている。四句目の「時間揺れたり」というのは、足が一段下に降りるときの身体感覚で、その揺れが記憶を現在の時間に一度に引き寄せて、ありありと若い母が自分のなかによみがえっているということなのだ。
鉢合わす牛車もなければぼうぼうとこのはつなつを立ち尽くしつつ
かなしみの噴き出すような白躑躅 口はつぐんでいなければならぬ
二首並んでいる。一首目はもちろん「源氏」の車争いを踏まえている。作者は京都の人だ。祇園祭では現実の牛車を見ることができる。
夏さえやがて枯れてゆくからマラカイトグリーンに光る爪を並べて
地響きのように花火の音がするビルの間を駆けぬけながら
だんだんにとうめいになってゆく父がながき手のばし夕刊を取る
激しすぎるものではないが、内側に抑えた情念をぐっと把持していて、それに対応する景色や事象をつかんだ時に、ぱっと手に取ってみせる。それが歌人だ。特に女性はそういうところが得意だ。「夏さえやがて枯れてゆくから」というのは、むろん自身の加齢を意識している。そこに「ビルの間を駆けぬけ」る「地響きのよう」な「花火の音が」聞こえる、というのは、存在の底に在るエロス的なもののほとばしりなのであって、そういう瞬時に自己を解放してくれる大きなものに、作者のこころは常にひらかれていると言ってよいだろう。
たぐり寄せる時間の帯はたわみつつ糸杉が風が光がちらばる
糸杉の花言葉は死 少年がかるがると朝の水たまり跳ぶ
これはローマのカラカラ浴場やポンペイの壁画を見たりする旅の一連にあるが、気づいてみると作品集の全篇に「時間」についての歌が散りばめられている。この少年は、現実の少年であるとともに西脇詩のなかにでてくるような小年でもあるのだ。
ねむれるだけねむりつづけて藻の色のふかみどりひく顔を起こせり
死者なれば憚ることなく名を呼ぶに木賊は青くかたまりて立つ
たいていの人間は、かなわぬ思いや果たせなかった願いを反芻しつつ、泥のように眠って後悔を忘れ、あらたに死者として目を覚ますというようなことを繰り返しているのだ、ということが、年をとるとわかってしまったりするので、私はこういう喪失感をのべた歌々に、いたく共感した。次に冴えた叙景の歌を引く。
橋脚はさびしきものか朝の陽が裾をひろげて流れてゆけり
徳利口のあたりにふわりと雲湧きぬ どこへでもゆけよおまへは好きに
擬人法はそうだと感じさせないぐらいの歌がよい。一首目は、光と影の映りかげんを絶妙にとらえている。二首目は熊野の旅の一連のなかにあるから、那智の滝の歌だろうと思うが、こういう外し方はなかなかない。
母の死の内側なのか 足垂らすちいさな流れに水がゆらめく
雪雲を吸い込む胸のひろやかにわたしのことはわたしがわすれる
こういう歌は絵のイメージがみえれば、それでよい。私は、流れにむかって足を垂らしているのは、「私」が付き添っている母であると解釈する。歌集の後半は特に、老いた父母の時間についての歌が増えて来る。あらためて歌集のタイトルである「記憶の椅子」という言葉に注意を向けてみると、椅子はそこにすわっていた人の時間の総体である、夫や友人や、とりわけて老いたる父と母の生活時間の総量を引き受けて、淡々とそこにある。だから椅子は時間の容れ物だ。「わたしのことはわたしがわすれる」という事は、裏を返せば私の記憶の中に残っているものを私は決して手放さない、ということでもあるのであって、そういうふうに読めるというほどに私も歳をとったのだ。人生は空しくもなくもなくもない。
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