一太郎ファイルの復刻。「未来」に以前載せた文章の一部を改稿してここに再掲する。いま副題をつけるとしたら、短歌の「私性」論というところか。
詞書を用いたテクストの重層化という方法は、今日ごく見慣れたものとなったが、それを確実なものとしたのは、岡井隆の歌集『マニエリスムの旅』(一九八〇年刊)の影響が大きかった。二度目の『岡井隆全歌集第Ⅱ巻』の別冊でも読むことができるが、歌集の解題というかたちで、「連雀転位考」という懇切丁寧な文章を巻末に寄せ、岡井のそれまでの実験が、一つの安定した方法として成熟を遂げたことを一般読者にわかるようなかたちで明らかに示したのは、塚本邦雄であった。
私自身の印象では、この歌集はいわば谷間の産物で、その前に出された歌集に一度十全に表現し終えている内容を再度歌い直したもののように思われる。タイトルも様式的な繰り返しをしている、という作者自身の意識を反映したものだと思う。
ジュネットなどを持ち出すまでもなく、小説を論ずる時に、「語り手のテクスト」と「作中人物のテクスト」を別のものとして論ずるのは、今日常識である。短歌の場合、両者が重なっているものだという暗黙の前提が、近代短歌のなかで形成され、強化された。周知のように古代の和歌においては、それは比較的自由なものだったのである。
詞書があると、先に出て来る詞書の文章は、「語り手のテクスト」という要素を強く持ち、その後に出て来る短歌は、「作中人物のテクスト」という要素を強く持つようになる傾向がある。詞書のあとの短歌においては、定型によって言葉の様式性が強調されるために、演技的な自意識を持って作っているのだという提示の仕方が強調されることになる。
ところで、『マニエリスムの旅』において、詞書は往々にして短歌そのものであったり、短歌と散文の中間的な詩的組成物であったりする。ということは、詞書も演技的な自意識を持って作られているという認識を読み手に強く強いてくるわけである。これは場合によっては、反転することもあり得る。
しかし、簡単に言うと、詞書は、一定の制約を受けながら、ほぼ何でもありという自由度を持っており、ここに自由詩を持って来ようが、日記の断片を持って来ようが、引用を持って来ようが、それは作者の思いのままなのである。短歌は一見すると小説よりも不自由にみえるけれども、詞書を導入したとたんに、語りの「水準」(ジュネット)の設定において、ほとんどアナーキーと言っていいような自由を獲得するのである。ここのところは幾度も強調しておいていいだろう。すると、あたかも短歌の負性であるかのように言われたことのある機会詩(オケージョナル・ポエム)としての性格は、文芸ジャンルの中で最大の強みを持っているということもできるのである。
ただ基本的に詞書は、短歌の連作や歌集の中にあるという約束の場に置かれているかぎり、読み手の意識としては、主役はあくまでも短歌であり、詞書は従である。そうして、後に来る短歌作品と前にある詞書には、連歌の付句のような微妙な照応と応対が存在することが暗黙のうちに要求されている。つまり詞書は、あとに添う短歌から完全に独立した自由なテクストではない。
さらにまた、連作の場合、先に出てくる歌が「語り手のテクスト」となり、後に出てくる歌が「作中人物のテクスト」の要素を強く持つといったことが起きて来る。それらは全体としてひとつの物語言説を作りだしているのである。
詞書を用いたテクストの重層化という方法は、今日ごく見慣れたものとなったが、それを確実なものとしたのは、岡井隆の歌集『マニエリスムの旅』(一九八〇年刊)の影響が大きかった。二度目の『岡井隆全歌集第Ⅱ巻』の別冊でも読むことができるが、歌集の解題というかたちで、「連雀転位考」という懇切丁寧な文章を巻末に寄せ、岡井のそれまでの実験が、一つの安定した方法として成熟を遂げたことを一般読者にわかるようなかたちで明らかに示したのは、塚本邦雄であった。
私自身の印象では、この歌集はいわば谷間の産物で、その前に出された歌集に一度十全に表現し終えている内容を再度歌い直したもののように思われる。タイトルも様式的な繰り返しをしている、という作者自身の意識を反映したものだと思う。
ジュネットなどを持ち出すまでもなく、小説を論ずる時に、「語り手のテクスト」と「作中人物のテクスト」を別のものとして論ずるのは、今日常識である。短歌の場合、両者が重なっているものだという暗黙の前提が、近代短歌のなかで形成され、強化された。周知のように古代の和歌においては、それは比較的自由なものだったのである。
詞書があると、先に出て来る詞書の文章は、「語り手のテクスト」という要素を強く持ち、その後に出て来る短歌は、「作中人物のテクスト」という要素を強く持つようになる傾向がある。詞書のあとの短歌においては、定型によって言葉の様式性が強調されるために、演技的な自意識を持って作っているのだという提示の仕方が強調されることになる。
ところで、『マニエリスムの旅』において、詞書は往々にして短歌そのものであったり、短歌と散文の中間的な詩的組成物であったりする。ということは、詞書も演技的な自意識を持って作られているという認識を読み手に強く強いてくるわけである。これは場合によっては、反転することもあり得る。
しかし、簡単に言うと、詞書は、一定の制約を受けながら、ほぼ何でもありという自由度を持っており、ここに自由詩を持って来ようが、日記の断片を持って来ようが、引用を持って来ようが、それは作者の思いのままなのである。短歌は一見すると小説よりも不自由にみえるけれども、詞書を導入したとたんに、語りの「水準」(ジュネット)の設定において、ほとんどアナーキーと言っていいような自由を獲得するのである。ここのところは幾度も強調しておいていいだろう。すると、あたかも短歌の負性であるかのように言われたことのある機会詩(オケージョナル・ポエム)としての性格は、文芸ジャンルの中で最大の強みを持っているということもできるのである。
ただ基本的に詞書は、短歌の連作や歌集の中にあるという約束の場に置かれているかぎり、読み手の意識としては、主役はあくまでも短歌であり、詞書は従である。そうして、後に来る短歌作品と前にある詞書には、連歌の付句のような微妙な照応と応対が存在することが暗黙のうちに要求されている。つまり詞書は、あとに添う短歌から完全に独立した自由なテクストではない。
さらにまた、連作の場合、先に出てくる歌が「語り手のテクスト」となり、後に出てくる歌が「作中人物のテクスト」の要素を強く持つといったことが起きて来る。それらは全体としてひとつの物語言説を作りだしているのである。
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