さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

石井辰彦『逸げて來る羔羊』 訂正

2016年09月10日 | 現代短歌 文学 文化
 タイトルの「逸」の元の活字は、二点しんにょうで、つくりの「免」も元の活字は「兔」である。「來る」も旧字である。それで「にげてくるこひつじ」と読む。帯に「連作短歌」とある。各章十首で読み切れるかたちになっていて、六〇の断章をもって構成されている。そのため、とても読みやすい。作者の世界観や美意識が、端的に、そして十分に抑制されたかたちで届けられる。

私は音楽ではオペラよりも室内楽の方が好きだが、本書はオペラ好みの作者が、私のような室内楽好みの読者のために、あえて自らの嗜好を抑制して、自己の詩を改編し直して提示してくれているようなところがある。口語の翻訳詩の系譜にある独特の自由詩的な文体と、句読点や感嘆符を多用した句またがりの多い語り(モノ語り)は、重苦しさや、浪漫的な情緒の過剰といったものとは無縁であり、何か晴れやかなアポロ的な光線のもとに言葉を羽ばたかせながら、自らの言葉をもって、残生を、それから先に逝った死者たちの影を荘厳しようとするものであるように思われる。 (※最初に「破調の多い」と書いて失礼した。数えてみると、むしろ厳格なまでに語音数の型式を守っており、それを句読点や一字空けや棒線でつないでいる技巧の冴えに感嘆させられる。)

多島海へと乗り出さうーーーーー 血塗れのリボンを(檣に)掲げつつ  石井辰彦 

※「多島海」に「たたうかい」、「血塗」に「ちまみ」、「檣」に「ほばしら」と、振り仮名がある。「出さう」のあとの棒線は、活字本では美しくつながっている。

ここにゐてここにはゐない 愛に似たものに充たされるべき私は  石井辰彦

※「私」に「わたし」と振り仮名。

ボードレールの『悪の華』のことが、本書をめくりながらしきりに思い浮かんだ。美的な生と青春を夢想した風雅の士の、万感をこめた「詩人」らへの哀悼の書。敗北の書であるとともに戦いの書。絶望的な自己励起の営みを吹く、言葉の風のざわめき。

石井辰彦の作品の表記は、単に技術的なもの、一作者の意匠ではなく、作曲家の楽譜のような、画家の画集のような、共通感覚に根差した芸術の全体性を呼び込むための句読法、記述法であるのだろう。そこには、日本語を用いた言語表現のなかで自由の余地を拡大しようとする、不退転の意志のようなものが感じ取れる。


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